日その日を一家むつまじく楽しく暮らすのがあたりまえだ。よしんば二十五円に十円ふえたらどれだけの贅沢《ぜいたく》ができる。――みんな欲で欲には限りがない――役目となれば五円が十円でも、雨の日雪の日にも休むわけにはいかない、やっぱり腰弁当で鼻水をたらして、若い者の中にまじってよぼよぼと通わなければならぬ。オヽいやな事だ!
というのである。だから役をひいた時、知人やら親族の者が、隠居仕事を勧め、中には先方にほぼ交渉《わたり》をつけて物にして来てまで勧めたが、ことごとく以上の理由で拒絶してしまったのである。細君は気軽な人物で何事もあきらめのよいたちだから文句はない。愚痴一つ言わない。お菊お新の二人も、母を助けて飯もたけば八百屋《やおや》へ使いにも行く。かくてこそ石井翁の無為主義も実行されているのである。
ところが武の母は石井翁の細君の妹だけに、この無為主義をあやぶみ、姉は盲従してこそおれ、女はやっぱり女、石井さんの隠居仕事で二十五円の上に十円ふえるならどのくらい楽と思うか知れないと、武をして石井翁を説き落とさすつもりでいるのである。
彼は変物だと最初世話をしかけた者が手をひいた時分。ある日曜日の午後二時ごろ、武は様子を見るべく赤坂区《あかさかく》南町《みなみちょう》の石井をたずねた。俥《くるま》のはいらぬ路地の中で、三軒長屋の最端《はし》がそれである。中古《ちゅうぶる》の建物だから、それほど見苦しくはない。上がり口の四畳半が玄関なり茶の間なり長火鉢《ながひばち》これに伴なう一式が並べてある。隣が八畳、これが座敷、このほかには台所のそばに薄暗い三畳があるばかり。南向きの縁先一間半ばかりの細長い庭には棚《たな》を造り、翁の楽しみの鉢物《はちもの》が並べてある。手狭であるが全体がよく整理されて乱雑なさまは毛ほどもなく、敷居も柱も縁もよくふきこまれて、光っている。
「御免なさい。」と武は上がり口の障子をあけたが、茶の間にだれもいない。
「武です。」とつけ加えた。すると座敷で、
「徳さんかえ、サアお上がり。」と言ったのが叔母《おば》である。
武は上がってふすまをあけると、座敷のまん中で叔父《おじ》叔母《おば》さし向かいの囲碁最中! 叔父はちょっと武を見て、微笑《わら》って目で挨拶《あいさつ》したばかり。叔母は、
「徳さん少し待っておくれ。じき勝負がつくから」と一心不乱の体《てい》である。
「どうかごゆっくり。」と徳さんの武もこのほかに挨拶のしようがない。ただあきれ返って、しょうことなしに盤面を見ていた。
「徳さんは碁が打てたかね。」と叔父は打ちながら問うた。
「まるでだめです。」
「でも四つ目殺しぐらいはできるだろう。」
「五目並べならできます。」
「ハハヽヽヽヽ五目並べじゃしかたがない。」
「叔母さんが碁をお打ちになることは、僕ちっとも知りませんでした。」
「わたしですか、わたしはこれでずいぶん古いのですよ。」と叔母は言ったが振り向きもしない。
「しょっちゅう打っていらっしゃったのですか。」
「いいえ、やたらに打ちだしたのは此家《ここ》へ引っこんでからですよ。――ちょっとこれを待ってちょうだい。」
「なりません。」と石井翁、一ぷくつけてスパリスパリと悠然《ゆうぜん》たるものである。
「だってこの切断《きり》は全くわたしの見落としですもの。」
「だからさっきから、わしは「待ちませんよ、」「待ちませんよ」と二三度も警告を発しておいたじゃないか。」
「待ちませんはあなたの口癖ですよ。」
「だれがそんな癖をつけました、わたしに。」
武は思わずクスリと笑った。
「それじゃどうあっても待ってくださらんの。」
「マア待ちますまい、癖になるから。」
と言われて、叔母は盤面を見渡してしばらく考えていたが、
「それじゃ投げましょう。そこが切れては碁にはなりませんもの。」
「まずそう言ったような形だね。」
そこで叔母は投げ出した。これから改まって挨拶《あいさつ》が済むと、雑談に移り、武は叔父《おじ》叔母《おば》さし向かいで、たいがい毎日碁を打つ事、娘ふたりはきょう上野公園に散歩に出かけた事など聞かされた。
右の次第で徳さんの武もついに手をひいて半年余りもたつと、母はやっぱり気になると見えて、どうにかして石井さんを説き落としてくれろと頼む。そこで武も隠居仕事の五円十円説では到底夫婦さし向かいの碁打ちを説き落とすことはできないと考え、今度は遊食罪悪説を持ち出して滔々《とうとう》とまくし立ててみた。
石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、
「それじゃ、山に隠れて木の実を食い露を飲んでおる人はどうする。」
「あれは仙人《せんにん》です。」
「仙人だって人だ。」
「それじゃ叔父《おじ》さんは仙人ですか。」
「市に隠れた仙人のつもりでおるのだ。」
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