これで武はまたも撃退されてしまったのである。
下
さて石井翁は煙草《たばこ》一本すいおわったところでベンチを立とうとしたが徳の遊食罪悪説がちょっと気にかかりだしたので、また一本取り出してすい初めた。徳の本心を見ぬいている。そして仙人説で撃退はしたものの、なるほど、まだぴんしゃん[#「ぴんしゃん」に傍点]しているのにただ遊んで食うているというのはほめたことではないように思われる。それなら何をする。腰弁はまっぴらだ。いなかに行って百姓でもするか。こいつはいいかも知れんがさし当たって田地がない。翁は行きづまってしまったので、仙人主義を弁護する理屈に立ち返ってしきりと考えこんでいると、どしり[#「どしり」に傍点]とばかり同じベンチに身を投げるように腰をおろした者がある。振り向いて見るや、
「オヤ河田《かわだ》さんじゃないか。」
先方は全く石井翁に気がつかなかったものと見えて、翁に声をかけらるるといきなり飛びたって帽をとり、
「コレはコレは石井さんですか、あなたとはまるきり気がつかんで失礼しました。」とぺこぺこお辞儀をする。そして顔を少しあからめた様子はよほど狼狽《ろうばい》したらしい、やっぱり六十余りの老人である。
「まアお掛けなさい。そしてその後はどうしました。」
「イヤもうお話にも何にもなりません。」と、腰をおろしながら、
「相変わらずで面目次第もないわけです。」とごま白の乱髪《らんぱつ》に骨太の指を熊手形《くまでがた》にさしこんで手荒くかいた。
石井翁は綿服ながら小ザッパリした衣装《なり》に引きかえて、この老人河田翁は柳原仕込《やなぎわらじこ》みの荒いスコッチの古洋服を着て、パクパク靴《ぐつ》をはいている。
「でも何かしておられるだろう。」と石井翁はじろじろ河田翁の様子を見ながら聞いた。そして腹の中で、「なるほど相変わらずだな」と思った。
「イヤとてもお話にもなんにも……」とやっぱり頭をかいていたがポケットから鹿皮《しかがわ》のまっ黒になった煙草入《たばこい》れとひしゃげた鉈豆煙管《なたまめぎせる》とを取り出した。ところがあいにくと煙草はごみまじりの粉ばかり、そのまままたポケットにしまいこんだのを見て、石井翁は「朝日」を袋とも出して、
「サアおすいなさい。」
「イヤこれはどうも」と河田翁は遠慮なく一本ぬき取って、石井翁から火を借りた。
この二老人は三十歳前後のころ、ある役所で一年余り同僚であったばかりでなく、石井の親類が河田の親類の親類とかで、石井一|家《け》では河田翁のうわさは時おり出て、『今何をしているだろう』『ほんとにあんな気の毒な人はない』など言われていたのである。
「しかし遊んでもいなさらんだろうが。」と石井翁はどこまでも心配そうに聞く。
「イヤとてもお話にもなんにも……」
これが河田翁持ち前の一つで、人に対すると言いたいことも言えなくなり、つまらんところに自分を卑下してしまうのである。
「あなたがわたしの家《うち》へ来てからもう五年になるなア」と石井翁は以前の事を思い出した。
「そうなりますかね、早いものだ……。」
「あの時、あなたが、一杯きげんで『雨の夜《よ》に日本近《にっぽんぢか》くねぼけて流れこむ』をうたって踊った時はおもしろかったがね、ハ、ハヽヽヽヽ」
「ハヽヽ」といっしょに笑ったぎり、河田翁は何も言わない。そしてなんとなくそわそわ[#「そわそわ」に傍点]している。
三十の年に恩人の無理じいに屈して、養子に行き、養子先の娘の半気違いに辛抱しきれず、ついに敬太郎という男の子を連れて飛びだしてしまい、その子は姉に預けて育ててもらう、それ以後は決して妻帯せず、純然たるひとり者で、とうとう六十余歳まで通して来たのが河田翁の一生である。
このひとり者が翁の不遇の原因をなしたのか、不遇がひとり者の原因であったのか、これをわかつことはできない。
善人で、酒もしいては飲まず、これという道楽もなく、出入交際の人々には義理を堅くしていて、そしてついに不遇で、いつもまごまごして安定の所を得ず今日《きょう》が日《ひ》に及んだ翁の運命は、不思議な事としか思えない。
そこで石井の人々初め翁を知っている者はみな『気の毒な人だ』と言い、また不思議なことだと評している。しかし皆々言い合わしたように一致している『理由』がないのでもない。第一、河田さんはいくじがない。その証拠には、養子に行く前に深く言いかわした女があった、いよいよ養子に行くときまるや五円で帯の片側を買って、それを手切れ同様に泣く泣く別れた。第二に、案外片意地で高慢なところがあって、些細《ささい》な事に腹を立てすぐ衝突して職業から離れてしまう。第三に、妙に遠慮深いところがあること。
なるほどそう聞かされると翁の知人どものいわゆる『理由』は多
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