二老人
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日比谷公園《ひびやこうえん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十|間《けん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)脈※[#「月+各」、第3水準1−90−45]《みゃくらく》
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       上

 秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園《ひびやこうえん》のベンチに腰をおろして休んでいる。老人とは言うものの、やっと六十歳で足腰も達者、至って壮健のほうである。
 日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り、風なきに風あるがごとくふわふわと飛んでいる、老人は目をしばたたいてそれをながめている、見るともなしに見ている。空々寂々《くうくうじゃくじゃく》心中なんらの思うこともない体《てい》。
 老人の前を幾組かの人が通った。老えるも若きも、病めるも健やかなるも。されどたれあってこの老人を気に留める者もなく、老人もまた人が通ろうと犬が過ぎ行こうと一切《いっせつ》おかまいなし、悠々《ゆうゆう》行路の人、縁なくんば眼前千里、ただ静かな穏やかな青空がいつもいつも平等におおうているばかりである。
 右の手を左の袂《たもと》に入れてゴソゴソやっていたが、やがて「朝日」を一本取り出して口にくわえた。今度はマッチを出したが箱が半《なか》ばこわれて中身はわずかに五六本しかない。あいにくに二本すりそこなって三本目でやっと火がついた。
 スパリスパリといかにもうまそうである。青い煙、白い煙、目の先に透明に光って、渦《うず》を巻いて消えゆく。
「オヤ、あれは徳《とく》じゃないか。」
と石井翁は消えゆく煙の末に浮かび出た洋服姿の年若い紳士を見て思った。芝生《しばふ》を隔てて二十|間《けん》ばかり先だから判然しない。判然しないが似ている。背|格好《かっこう》から歩きつきまで確かに武《たけし》だと思ったが、彼は足早に過ぎ去って木陰《こかげ》に隠れてしまった。
 この姿のおかげで老人は空々寂々の境《さかい》にいつまでもいるわけにゆかなくなった。
 甥《おい》の山上《やまかみ》武は二三日《にさんち》前、石井翁を訪《と》うて、口をきわめてその無為主義を攻撃したのである。武を石井老人はいつも徳と呼ぶ。それは武の幼名を徳助と言ってから、十二三のころ、徳の父が当世流に武と改名さしたのだ。
 徳の姿を見ると二三日《にさんち》前の徳の言葉を老人は思い出した。
 徳の説く所もまんざら無理ではない。道理はあるが、あの徳の言い草が本気でない。真実|彼奴《きゃつ》はそう信じて言うわけじゃない。あれは当世流の理屈で、だれも言うたと、言わば口前《くちまえ》だ。徳の本心はやっぱりわしを引っぱり出して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうちは取れる金なら取るようにするが得《とく》だ、叔父《おじ》さんが出る気さえあればきっと周旋する、どうせ隠居仕事のつもりだから十円だって決して恥ずるに足らんと言ったくせに、今度はどうだ。人間一生、いやしくも命のある間は遊んで暮らす法はない、病気でない限り死ぬるまで仕事をするのが人間の義務だと言う。まるで理屈の根本が違って来たじゃないか、――やっぱりわしをかせがすつもりサ……とまで考えて来た時、老人はちょうど一本の煙草《たばこ》をすい切った。
 石井翁は一年前に、ある官職をやめて恩給三百円をもらう身分になった。月に割って二十五円、一家は妻に二十《はたち》になるお菊と十八になるお新の二人娘で都合四人ぐらし、銀行に預けた貯金とても高が知れてるから、まず食って行けないというのが世間並みである。けれども石井翁は少しも苦にしない。
 例を車夫や職工にとって、食って行けないはずはないと主張するのである。むろん食うに食われない理屈はない、家賃、米代以下お新の学校費まで計算して、なるほど二十五円で間に合わそうと思えば間に合うのである。
 それで石井翁の主張は、間に合いさえすれば、それでやってゆく。いまさらわしが隠居仕事で候《そうろう》のと言って、腰弁当で会社にせよ役所にせよ病院の会計にせよ、五円十円とかせいでみてどうする、わしは長年のお務めを終えて、やれやれ御苦労であったと恩給をいただく身分になったのだ。治まる聖代《みよ》のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。もはやこうなれば、わしなどはいわゆる聖代の逸民だ。恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂戴《ちょうだい》して、すっかり欲から離れて、その
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