い》である。
「どうかごゆっくり。」と徳さんの武もこのほかに挨拶のしようがない。ただあきれ返って、しょうことなしに盤面を見ていた。
「徳さんは碁が打てたかね。」と叔父は打ちながら問うた。
「まるでだめです。」
「でも四つ目殺しぐらいはできるだろう。」
「五目並べならできます。」
「ハハヽヽヽヽ五目並べじゃしかたがない。」
「叔母さんが碁をお打ちになることは、僕ちっとも知りませんでした。」
「わたしですか、わたしはこれでずいぶん古いのですよ。」と叔母は言ったが振り向きもしない。
「しょっちゅう打っていらっしゃったのですか。」
「いいえ、やたらに打ちだしたのは此家《ここ》へ引っこんでからですよ。――ちょっとこれを待ってちょうだい。」
「なりません。」と石井翁、一ぷくつけてスパリスパリと悠然《ゆうぜん》たるものである。
「だってこの切断《きり》は全くわたしの見落としですもの。」
「だからさっきから、わしは「待ちませんよ、」「待ちませんよ」と二三度も警告を発しておいたじゃないか。」
「待ちませんはあなたの口癖ですよ。」
「だれがそんな癖をつけました、わたしに。」
武は思わずクスリと笑った。
「それじゃどうあっても待ってくださらんの。」
「マア待ちますまい、癖になるから。」
と言われて、叔母は盤面を見渡してしばらく考えていたが、
「それじゃ投げましょう。そこが切れては碁にはなりませんもの。」
「まずそう言ったような形だね。」
そこで叔母は投げ出した。これから改まって挨拶《あいさつ》が済むと、雑談に移り、武は叔父《おじ》叔母《おば》さし向かいで、たいがい毎日碁を打つ事、娘ふたりはきょう上野公園に散歩に出かけた事など聞かされた。
右の次第で徳さんの武もついに手をひいて半年余りもたつと、母はやっぱり気になると見えて、どうにかして石井さんを説き落としてくれろと頼む。そこで武も隠居仕事の五円十円説では到底夫婦さし向かいの碁打ちを説き落とすことはできないと考え、今度は遊食罪悪説を持ち出して滔々《とうとう》とまくし立ててみた。
石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、
「それじゃ、山に隠れて木の実を食い露を飲んでおる人はどうする。」
「あれは仙人《せんにん》です。」
「仙人だって人だ。」
「それじゃ叔父《おじ》さんは仙人ですか。」
「市に隠れた仙人のつもりでおるのだ。」
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