夜《やみよ》なら真闇黒《まっくら》な筋である。それも月の十日と二十日は琴平の縁日で、中門を出入《ではいり》する人の多少《すこし》は通るが、実、平常《ふだん》、此町に用事のある者でなければ余り人の往来《ゆきき》しない所である。
 少女《むすめ》はぬけろじ[#「ぬけろじ」に傍点]を出るや、そっと左右を見た。月は中天に懸《かゝっ》ていて、南から北へと通った此町を隈なく照らして、森《しん》としている。人の住んで居ない町かと思われる程で、少女が(産婆)の軒燈の前まで来た時、其二階で赤児《あかんぼ》の泣声が微かにした。少女は頭を上げてちょっと見上げたが、其儘すぐ一軒|置《おい》た隣家《となり》の二階に目を注いだ。
 隣家の二階というのは、見た処、極く軒の低い家で、下の屋根と上の屋根との間に、一間の中窓《ちゅうまど》が窮屈そうに挾《はさ》まっている、其窓先に軒がさも鬱陶しく垂れて、陰気な影を窓の障子に映じている。
 少女は此二階家の前に来ると暫時《しばら》く佇止《たちどま》って居たが、窓を見上げて「江藤《えとう》さん」と小声で呼んだ、窓は少し開《あい》ていて、薄赤い光が煤に黄《きば》んだ障子に映じて
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