生《しよせい》は居《ゐ》なくなる! と僕《ぼく》は思《おも》つた時《とき》、思《おも》はず足《あし》を止《とゞ》めた。頭《あたま》の上《うへ》の眞黒《まつくろ》に繁《しげ》つた枝《えだ》から水《みづ》がぼた/\落《お》ちる、墓穴《はかあな》のやうな溪底《たにそこ》では水《みづ》の激《げき》して流《なが》れる音《おと》が悽《すご》く響《ひゞ》く。僕《ぼく》は身《み》の髮《け》のよだつを感《かん》じた。
死人《しにん》のやうな顏《かほ》をして僕《ぼく》の歸《かへ》つて來《き》たのを見《み》て、宿《やど》の者《もの》は如何《どん》なに驚《おどろ》いたらう。其驚《そのおどろき》よりも僕《ぼく》の驚《おどろ》いたのは此日《このひ》お絹《きぬ》が來《き》たが、午後《ごゝ》又《また》實家《じつか》へ歸《かへ》つたとの事《こと》である。
其夜《そのよ》から僕《ぼく》は熱《ねつ》が出《で》て今日《けふ》で三日《みつか》になるが未《ま》だ快然《はつきり》しない。山《やま》に登《のぼ》つて風邪《かぜ》を引《ひ》いたのであらう。
君《きみ》よ、君《きみ》は今《いま》の時文《じぶん》評論家《ひやうろんか》でないから、此《この》三日《みつか》の間《あひだ》、床《とこ》の中《なか》に呻吟《しんぎん》して居《ゐ》た時《とき》考《かんが》へたことを聞《き》いて呉《く》れるだらう。
戀《こひ》は力《ちから》である、人《ひと》の抵抗《ていかう》することの出來《でき》ない力《ちから》である。此力《このちから》を認識《にんしき》せず、又《また》此力《このちから》を壓《おさ》へ得《う》ると思《おも》ふ人《ひと》は、未《ま》だ此力《このちから》に觸《ふ》れなかつた人《ひと》である。其《その》證據《しようこ》には曾《かつ》て戀《こひ》の爲《た》めに苦《くるし》み悶《もだ》えた人《ひと》も、時《とき》經《た》つて、普通《ふつう》の人《ひと》となる時《とき》は、何故《なにゆゑ》に彼時《あのとき》自分《じぶん》が戀《こひ》の爲《た》めに斯《か》くまで苦悶《くもん》したかを、自分《じぶん》で疑《うた》がう者《もの》である。則《すなは》ち彼《かれ》は戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ》れて居《ゐ》ないからである。同《おな》じ人《ひと》ですら其通《そのとほ》り、況《いは》んや曾《かつ》て戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ》れたことのない人《ひと》が如何《どう》して他人《たにん》の戀《こひ》の消息《せうそく》が解《わか》らう、その樂《たのしみ》が解《わか》らう、其苦《そのくるしみ》が解《わか》らう?。
戀《こひ》に迷《まよ》ふを笑《わら》ふ人《ひと》は、怪《あや》しげな傳説《でんせつ》、學説《がくせつ》に迷《まよ》はぬがよい。戀《こひ》は人《ひと》の至情《しゞやう》である。此《この》至情《しゞやう》をあざける人《ひと》は、百|萬年《まんねん》も千|萬年《まんねん》も生《い》きるが可《よ》い、御氣《おき》の毒《どく》ながら地球《ちきう》の皮《かは》は忽《たちま》ち諸君《しよくん》を吸《す》ひ込《こ》むべく待《ま》つて居《ゐ》る、泡《あわ》のかたまり先生《せんせい》諸君《しよくん》、僕《ぼく》は諸君《しよくん》が此《この》不可思議《ふかしぎ》なる大宇宙《だいうちう》をも統御《とうぎよ》して居《ゐ》るやうな顏構《かほつき》をして居《ゐ》るのを見《み》ると冷笑《れいせう》したくなる僕《ぼく》は諸君《しよくん》が今《いま》少《すこ》しく眞面目《まじめ》に、謙遜《けんそん》に、嚴肅《げんしゆく》に、此《この》人生《じんせい》と此《この》天地《てんち》の問題《もんだい》を見《み》て貰《もら》ひたいのである。
諸君《しよくん》が戀《こひ》を笑《わら》ふのは、畢竟《ひつきやう》、人《ひと》を笑《わら》ふのである、人《ひと》は諸君《しよくん》が思《おも》つてるよりも神祕《しんぴ》なる動物《どうぶつ》である。若《も》し人《ひと》の心《こゝろ》に宿《やど》る所《ところ》の戀《こひ》をすら笑《わら》ふべく信《しん》ずべからざる者《もの》ならば、人生《じんせい》遂《つひ》に何《なん》の價《あたひ》ぞ、人《ひと》の心《こゝろ》ほど嘘僞《きよぎ》な者《もの》は無《な》いではないか。諸君《しよくん》にして若《も》し、月夜《げつや》笛《ふえ》を聞《き》いて、諸君《しよくん》の心《こゝろ》に少《すこ》しにても『永遠《エターニテー》』の俤《おもかげ》が映《うつ》るならば、戀《こひ》を信《しん》ぜよ。若《も》し、諸君《しよくん》にして中江兆民《なかえてうみん》先生《せんせい》と同《どう》一|種《しゆ》であつて、十八|里《り》零圍氣《れいゐき》を振舞《ふりま》はして滿足《まんぞく》して居《ゐ》るならば、諸君《しよくん》は何《なん》の權威《けんゐ》あつて、『春《はる》短《みじか》し何《なに》に不滅《ふめつ》の命《いのち》ぞと』云々《うん/\》と歌《うた》ふ人《ひと》の自由《じいう》に干渉《かんせふ》し得《う》るぞ。『若《わか》い時《とき》は二|度《ど》はない』と稱《しよう》してあらゆる肉慾《にくよく》を恣《ほしい》まゝにせんとする青年男女《せいねんだんぢよ》の自由《じいう》に干渉《かんせふ》し得《う》るぞ。
内山君《うちやまくん》足下《そくか》、先《ま》づ此位《このくらゐ》にして置《お》かう。さて斯《かく》の如《ごと》くに僕《ぼく》は戀《こひ》其物《そのもの》に隨喜《ずゐき》した。これは失戀《しつれん》の賜《たまもの》かも知《し》れない。明後日《みやうごにち》は僕《ぼく》は歸京《きゝやう》する。
小田原《をだはら》を通《とほ》る時《とき》、僕《ぼく》は如何《どん》な感《かん》があるだらう。
[#地から2字上げ]小山生
底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
1964(昭和39)年7月1日初版発行
1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
1995(平成7)年7月3日増補版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年7月2日修正
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