湯ヶ原より
国木田独歩

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)内山君《うちやまくん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)去《さる》十三|日《にち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》ふて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)飽《あ》き/\した
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 内山君《うちやまくん》足下《そくか》
 何故《なぜ》そう急《きふ》に飛《と》び出《だ》したかとの君《きみ》の質問《しつもん》は御尤《ごもつとも》である。僕《ぼく》は不幸《ふかう》にして之《これ》を君《きみ》に白状《はくじやう》してしまはなければならぬことに立到《たちいた》つた。然《しか》し或《あるひ》はこれが僕《ぼく》の幸《さいはひ》であるかも知《し》れない、たゞ僕《ぼく》の今《いま》の心《こゝろ》は確《たし》かに不幸《ふかう》と感[#「感」に丸傍点]じて居《を》るのである、これを幸《さいはひ》であつたと知[#「知」に丸傍点]ることは今後《こんご》のことであらう。しかし將來《このさき》これを幸《さいはひ》であつた[#「あつた」に丸傍点]と知《し》る時《とき》と雖《いへど》も、たしかに不幸《ふかう》である[#「ある」に丸傍点]と感《かん》ずるに違《ちが》いない。僕《ぼく》は知《し》らないで宜《よ》い、唯《た》だ感《かん》じたくないものだ。
『こゝに一人《ひとり》の少女《せうぢよ》あり。』小説《せうせつ》は何時《いつ》でもこんな風《ふう》に初《はじ》まるもので、批評家《ひゝやうか》は戀《こひ》の小説《せうせつ》にも飽《あ》き/\したとの御注文《ごちゆうもん》、然《しか》し年若《としわか》いお互《たがひ》の身《み》に取《と》つては、事《こと》の實際《じつさい》が矢張《やは》りこんな風《ふう》に初《はじま》るのだから致《いた》し方《かた》がない。僕《ぼく》は批評家《ひゝやうか》の御注文《ごちゆうもん》に應《おう》ずべく神樣《かみさま》が僕《ぼく》及《およ》び人類《じんるゐ》を造《つく》つて呉《く》れなかつたことを感謝《かんしや》する。
 去《さる》十三|日《にち》の夜《よ》、僕《ぼく》は獨《ひと》り机《つくゑ》に倚掛《よりかゝ》つてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考《かんが》へて居《ゐ》た。十|時《じ》を過《す》ぎ家《いへ》の者《もの》は寢《ね》てしまひ、外《そと》は雨《あめ》がしと/\降《ふ》つて居《ゐ》る。親《おや》も兄弟《きやうだい》もない僕《ぼく》の身《み》には、こんな晩《ばん》は頗《すこぶ》る感心《かんしん》しないので、おまけに下宿住《げしゆくずまひ》、所謂《いはゆ》る半夜燈前十年事[#「半夜燈前十年事」に白丸傍点]、一時和雨到心頭[#「一時和雨到心頭」に白丸傍点]といふ一|件《けん》だから堪忍《たまつ》たものでない、まづ僕《ぼく》は泣《な》きだしさうな顏《かほ》をして凝然《じつ》と洋燈《ランプ》の傘《かさ》を見《み》つめて居《ゐ》たと想像《さう/″\》し給《たま》へ。
 此時《このとき》フと思《おも》ひ出《だ》したのはお絹《きぬ》のことである、お絹《きぬ》、お絹《きぬ》、君《きみ》は未《ま》だ此名《このな》にはお知己《ちかづき》でないだらう。君《きみ》ばかりでない、僕《ぼく》の朋友《ほういう》の中《うち》、何人《なんぴと》も未《いま》だ此名《このな》が如何《いか》に僕《ぼく》の心《こゝろ》に深《ふか》い、優《やさ》しい、穩《おだや》かな響《ひゞき》を傳《つた》へるかの消息《せうそく》を知《し》らないのである。『こゝに一人《ひとり》の少女《せうぢよ》あり、其名《そのな》を絹《きぬ》といふ』と僕《ぼく》は小説批評家《せうせつひゝやうか》への面當《つらあて》に今《いま》一|度《ど》特筆《とくひつ》大書《たいしよ》する。
 僕《ぼく》は此《この》少女《せうぢよ》を思《おも》ひ出《だ》すと共《とも》に『戀《こひ》しい』、『見《み》たい』、『逢《あ》ひたい』の情《じやう》がむら/\とこみ上《あ》げて來《き》た。君《きみ》が何《なん》と言《い》はうとも實際《じつさい》さうであつたから仕方《しかた》がない。此《この》天地間《てんちかん》、僕《ぼく》を愛《あい》し、又《また》僕《ぼく》が愛《あい》する者《もの》は唯《た》だ此《この》少女《せうぢよ》ばかりといふ風《ふう》な感情《こゝろもち》が爲《し》て來《き》た。あゝ是《こ》れ『浮《う》きたる心《こゝろ》』だらうか、何故《なにゆゑ》に自然《しぜん》を愛《あい》する心
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング