《こゝろ》は清《きよ》く高《たか》くして、少女《せうぢよ》(人間《にんげん》)を戀《こ》ふる心《こゝろ》は『浮《う》きたる心《こゝろ》』、『いやらしい心《こゝろ》』、『不健全《ふけんぜん》なる心《こゝろ》』だらうか、僕《ぼく》は一|念《ねん》こゝに及《およ》べば世《よ》の倫理學者《りんりがくしや》、健全先生《けんぜんせんせい》、批評家《ひゝやうか》、なんといふ動物《どうぶつ》を地球外《ちきうぐわい》に放逐《はうちく》したくなる、西印度《にしいんど》の猛烈《まうれつ》なる火山《くわざん》よ、何故《なにゆゑ》に爾《なんぢ》の熱火《ねつくわ》を此種《このしゆ》の動物《どうぶつ》の頭上《づじやう》には注《そゝ》がざりしぞ!
 僕《ぼく》はお絹《きぬ》が梨《なし》をむいて、僕《ぼく》が獨《ひとり》で入《は》いつてる浴室《よくしつ》に、そつと持《もつ》て來《き》て呉《く》れたことを思《おも》ひ、二人《ふたり》で溪流《けいりう》に沿《そ》ふて散歩《さんぽ》したことを思《おも》ひ、其《その》優《やさ》しい言葉《ことば》を思《おも》ひ、其《その》無邪氣《むじやき》な態度《たいど》を思《おも》ひ、其《その》笑顏《ゑがほ》を思《おも》ひ、思《おも》はず机《つくゑ》を打《う》つて、『明日《あす》の朝《あさ》に行《ゆ》く!』と叫《さ》けんだ。
 お絹《きぬ》とは何人《なんぴと》ぞ、君《きみ》驚《おどろ》く勿《なか》れ、藝者《げいしや》でも女郎《ぢよらう》でもない、海老茶《えびちや》式部《しきぶ》でも島田《しまだ》の令孃《れいぢやう》でもない、美人《びじん》でもない、醜婦《しうふ》でもない、たゞの女《をんな》である、湯原《ゆがはら》の温泉宿《をんせんやど》中西屋《なかにしや》の女中《ぢよちゆう》である! 今《いま》僕《ぼく》の斯《か》う筆《ふで》を執《と》つて居《を》る家《うち》の女中《ぢよちゆう》である! 田舍《ゐなか》の百姓《ひやくしやう》の娘《むすめ》である! 小田原《をだはら》は大都會《だいとくわい》と心得《こゝろえ》て居《ゐ》る田舍娘《ゐなかむすめ》! この娘《むすめ》を僕《ぼく》が知《し》つたのは昨年《さくねん》の夏《なつ》、君《きみ》も御存知《ごぞんぢ》の如《ごと》く病後《びやうご》、赤《せき》十|字社《じしや》の醫者《いしや》に勸《すゝ》められて二ヶ|月間《げつかん》此《この》湯原《ゆがはら》に滯在《たいざい》して居《ゐ》た時《とき》である。
 十四|日《か》の朝《あさ》僕《ぼく》は支度《したく》も匆々《そこ/\》に宿《やど》を飛《と》び出《だ》した。銀座《ぎんざ》で半襟《はんえり》、簪《かんざし》、其他《そのた》娘《むすめ》が喜《よろこ》びさうな品《しな》を買《か》ひ整《とゝの》へて汽車《きしや》に乘《の》つた。僕《ぼく》は今日《けふ》まで女《をんな》を喜《よろこ》ばすべく半襟《はんえり》を買《か》はなかつたが、若《も》し彼《あ》の娘《むすめ》に此等《これら》の品《しな》を與《やつ》たら如何《どんな》に喜《よろ》こぶだらうと思《おも》ふと、僕《ぼく》もうれしくつて堪《たま》らなかつた。見榮坊《みえばう》! 世《よ》には見榮《みえ》で女《をんな》に物《もの》を與《や》つたり、與《や》らなかつたりする者《もの》が澤山《たくさん》ある。僕《ぼく》は心《こゝろ》から此《この》貧《まづ》しい贈物《おくりもの》を我愛《わがあい》する田舍娘《ゐなかむすめ》に呈上《ていじやう》する!
 夜來《やらい》の雨《あめ》はあがつたが、空氣《くうき》は濕《しめ》つて、空《そら》には雲《くも》が漂《たゞよ》ふて居《ゐ》た。夏《なつ》の初《はじめ》の旅《たび》、僕《ぼく》は何《なに》よりも是《これ》が好《すき》で、今日《こんにち》まで數々《しば/\》此《この》季節《きせつ》に旅行《りよかう》した、然《しか》しあゝ何等《なんら》の幸福《かうふく》ぞ、胸《むね》に樂《たの》しい、嬉《う》れしい空想《くうさう》を懷《いだ》きながら、今夜《こんや》は彼《あ》の娘《むすめ》に遇《あ》はれると思《おも》ひながら、今夜《こんや》は彼《あ》の清《きよ》く澄《す》んだ温泉《をんせん》に入《はひ》られると思《おも》ひながら、此《この》好時節《かうじせつ》に旅行《りよかう》せんとは。
 國府津《こふづ》で下《お》りた時《とき》は日光《につくわう》雲間《くもま》を洩《も》れて、新緑《しんりよく》の山《やま》も、野《の》も、林《はやし》も、眼《め》さむるばかり輝《かゞや》いて來《き》た。愉快《ゆくわい》! 電車《でんしや》が景氣《けいき》よく走《はし》り出《だ》す、函嶺《はこね》諸峰《しよほう》は奧《おく》ゆかしく、嚴《おごそ》かに、面《おもて》を壓《あつ》して近《ちかづ》いて來《く》る! 
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