ふと僕《ぼく》は慊《いや》になつてしまつた。一口《ひとくち》に言《い》へば、海《うみ》も山《やま》もない、沖《おき》の大島《おほしま》、彼《あ》れが何《なん》だらう。大浪《おほなみ》小浪《こなみ》の景色《けしき》、何《なん》だ。今《いま》の今《いま》まで僕《ぼく》をよろこばして居《ゐ》た自然《しぜん》は、忽《たちま》ちの中《うち》に何《なん》の面白味《おもしろみ》もなくなつてしまつた。僕《ぼく》とは他人《たにん》になつてしまつた。
 湯原《ゆがはら》の温泉《をんせん》は僕《ぼく》になじみ[#「なじみ」に傍点]の深《ふか》い處《ところ》であるから、たとひお絹《きぬ》が居《ゐ》ないでも僕《ぼく》に取《と》つて興味《きようみ》のない譯《わけ》はない、然《しか》し既《すで》にお絹《きぬ》を知《し》つた後《のち》の僕《ぼく》には、お絹《きぬ》の居《ゐ》ないことは寧《むし》ろ不愉快《ふゆくわい》の場所《ばしよ》となつてしまつたのである。不愉快《ふゆくわい》の人車《じんしや》に搖《ゆ》られて此《こ》の淋《さ》びしい溪間《たにま》に送《おく》り屆《とゞ》けられることは、頗《すこぶ》る苦痛《くつう》であつたが、今更《いまさら》引返《ひきか》へす事《こと》も出來《でき》ず、其日《そのひ》の午後《ごゝ》五|時頃《じごろ》、此宿《このやど》に着《つ》いた。突然《とつぜん》のことであるから宿《やど》の主人《あるじ》を驚《おどろ》かした。主人《あるじ》は忠實《ちゆうじつ》な人《ひと》であるから、非常《ひじやう》に歡迎《くわんげい》して呉《く》れた。湯《ゆ》に入《はひ》つて居《ゐ》ると女中《ぢよちゆう》の一人《ひとり》が來《き》て、
『小山《こやま》さんお氣《き》の毒《どく》ですね。』
『何故《なぜ》?』
『お絹《きぬ》さんは最早《もう》居《ゐ》ませんよ、』と言《い》ひ捨《す》てゝばた/\と逃《に》げて去《い》つた。哀《あは》れなる哉《かな》、これが僕《ぼく》の失戀《しつれん》の弔詞《てうじ》である! 失戀《しつれん》?、失戀《しつれん》が聞《き》いてあきれる。僕《ぼく》は戀《こひ》して居《ゐ》たのだらうけれども、夢《ゆめ》に、實《じつ》に夢《ゆめ》にもお絹《きぬ》をどうしやうといふ事《こと》はなかつた、お絹《きぬ》も亦《ま》た、僕《ぼく》を憎《に》くからず思《おも》つて居《ゐ》たらう、決《けつ》して其《それ》以上《いじやう》のことは思《おも》はなかつたに違《ちが》ひない。
 處《ところ》が其夜《そのよ》、女中《ぢよちゆう》[#「女中《ぢよちゆう》」は底本では「女中《ぢうちゆう》」]どもが僕《ぼく》の部屋《へや》に集《あつま》つて、宿《やど》の娘《むすめ》も來《き》た。お絹《きぬ》の話《はなし》が出《で》て、お絹《きぬ》は愈々《いよ/\》小田原《をだはら》に嫁《よめ》にゆくことに定《き》まつた一|條《でう》を聞《き》かされた時《とき》の僕《ぼく》の心持《こゝろもち》、僕《ぼく》の運命《うんめい》が定《さだま》つたやうで、今更《いまさら》何《なん》とも言《い》へぬ不快《ふくわい》でならなかつた。しからば矢張《やはり》失戀《しつれん》であらう! 僕《ぼく》はお絹《きぬ》を自分《じぶん》の物《もの》、自分《じぶん》のみを愛《あい》すべき人《ひと》と、何時《いつ》の間《ま》にか思込《おもひこ》んで居《ゐ》たのであらう。
 土産物《みやげもの》は女中《ぢよちゆう》や娘《むすめ》に分配《ぶんぱい》してしまつた。彼等《かれら》は確《たし》かによろこんだ、然《しか》し僕《ぼく》は嬉《うれ》しくも何《なん》ともない。
 翌日《よくじつ》は雨《あめ》、朝《あさ》からしよぼ/\と降《ふ》つて陰鬱《いんうつ》極《きは》まる天氣《てんき》。溪流《けいりう》の水《みづ》増《ま》してザア/\と騷々《さう/″\》しいこと非常《ひじやう》。晝飯《ひるめし》に宿《やど》の娘《むすめ》が給仕《きふじ》に來《き》て、僕《ぼく》の顏《かほ》を見《み》て笑《わら》ふから、僕《ぼく》も笑《わら》はざるを得《え》ない。
『貴所《あなた》はお絹《きぬ》に逢《あ》ひたくつて?』
『可笑《をか》しい事《こと》を言《い》ひますね、昨年《さくねん》あんなに世話《せわ》になつた人《ひと》に會《あ》ひたいのは當然《あたりまへ》だらうと思《おも》ふ。』
『逢《あ》はして上《あ》げましようか?』
『難有《ありがた》いね、何分《なにぶん》宜《よろ》しく。』
『明日《あした》きつとお絹《きぬ》さん宅《うち》へ來《き》ますよ。』
『來《き》たら宜《よろ》しく被仰《おつしやつ》て下《くだ》さい、』と僕《ぼく》が眞實《ほんたう》にしないので娘《むすめ》は默《だま》つて唯《た》だ笑《わら》つて居《ゐ》た。お絹《きぬ》は此娘《このむす
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