》れたことのない人《ひと》が如何《どう》して他人《たにん》の戀《こひ》の消息《せうそく》が解《わか》らう、その樂《たのしみ》が解《わか》らう、其苦《そのくるしみ》が解《わか》らう?。
戀《こひ》に迷《まよ》ふを笑《わら》ふ人《ひと》は、怪《あや》しげな傳説《でんせつ》、學説《がくせつ》に迷《まよ》はぬがよい。戀《こひ》は人《ひと》の至情《しゞやう》である。此《この》至情《しゞやう》をあざける人《ひと》は、百|萬年《まんねん》も千|萬年《まんねん》も生《い》きるが可《よ》い、御氣《おき》の毒《どく》ながら地球《ちきう》の皮《かは》は忽《たちま》ち諸君《しよくん》を吸《す》ひ込《こ》むべく待《ま》つて居《ゐ》る、泡《あわ》のかたまり先生《せんせい》諸君《しよくん》、僕《ぼく》は諸君《しよくん》が此《この》不可思議《ふかしぎ》なる大宇宙《だいうちう》をも統御《とうぎよ》して居《ゐ》るやうな顏構《かほつき》をして居《ゐ》るのを見《み》ると冷笑《れいせう》したくなる僕《ぼく》は諸君《しよくん》が今《いま》少《すこ》しく眞面目《まじめ》に、謙遜《けんそん》に、嚴肅《げんしゆく》に、此《この》人生《じんせい》と此《この》天地《てんち》の問題《もんだい》を見《み》て貰《もら》ひたいのである。
諸君《しよくん》が戀《こひ》を笑《わら》ふのは、畢竟《ひつきやう》、人《ひと》を笑《わら》ふのである、人《ひと》は諸君《しよくん》が思《おも》つてるよりも神祕《しんぴ》なる動物《どうぶつ》である。若《も》し人《ひと》の心《こゝろ》に宿《やど》る所《ところ》の戀《こひ》をすら笑《わら》ふべく信《しん》ずべからざる者《もの》ならば、人生《じんせい》遂《つひ》に何《なん》の價《あたひ》ぞ、人《ひと》の心《こゝろ》ほど嘘僞《きよぎ》な者《もの》は無《な》いではないか。諸君《しよくん》にして若《も》し、月夜《げつや》笛《ふえ》を聞《き》いて、諸君《しよくん》の心《こゝろ》に少《すこ》しにても『永遠《エターニテー》』の俤《おもかげ》が映《うつ》るならば、戀《こひ》を信《しん》ぜよ。若《も》し、諸君《しよくん》にして中江兆民《なかえてうみん》先生《せんせい》と同《どう》一|種《しゆ》であつて、十八|里《り》零圍氣《れいゐき》を振舞《ふりま》はして滿足《まんぞく》して居《ゐ》るならば、諸君《しよくん》は何
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