生《しよせい》は居《ゐ》なくなる! と僕《ぼく》は思《おも》つた時《とき》、思《おも》はず足《あし》を止《とゞ》めた。頭《あたま》の上《うへ》の眞黒《まつくろ》に繁《しげ》つた枝《えだ》から水《みづ》がぼた/\落《お》ちる、墓穴《はかあな》のやうな溪底《たにそこ》では水《みづ》の激《げき》して流《なが》れる音《おと》が悽《すご》く響《ひゞ》く。僕《ぼく》は身《み》の髮《け》のよだつを感《かん》じた。
 死人《しにん》のやうな顏《かほ》をして僕《ぼく》の歸《かへ》つて來《き》たのを見《み》て、宿《やど》の者《もの》は如何《どん》なに驚《おどろ》いたらう。其驚《そのおどろき》よりも僕《ぼく》の驚《おどろ》いたのは此日《このひ》お絹《きぬ》が來《き》たが、午後《ごゝ》又《また》實家《じつか》へ歸《かへ》つたとの事《こと》である。
 其夜《そのよ》から僕《ぼく》は熱《ねつ》が出《で》て今日《けふ》で三日《みつか》になるが未《ま》だ快然《はつきり》しない。山《やま》に登《のぼ》つて風邪《かぜ》を引《ひ》いたのであらう。
 君《きみ》よ、君《きみ》は今《いま》の時文《じぶん》評論家《ひやうろんか》でないから、此《この》三日《みつか》の間《あひだ》、床《とこ》の中《なか》に呻吟《しんぎん》して居《ゐ》た時《とき》考《かんが》へたことを聞《き》いて呉《く》れるだらう。
 戀《こひ》は力《ちから》である、人《ひと》の抵抗《ていかう》することの出來《でき》ない力《ちから》である。此力《このちから》を認識《にんしき》せず、又《また》此力《このちから》を壓《おさ》へ得《う》ると思《おも》ふ人《ひと》は、未《ま》だ此力《このちから》に觸《ふ》れなかつた人《ひと》である。其《その》證據《しようこ》には曾《かつ》て戀《こひ》の爲《た》めに苦《くるし》み悶《もだ》えた人《ひと》も、時《とき》經《た》つて、普通《ふつう》の人《ひと》となる時《とき》は、何故《なにゆゑ》に彼時《あのとき》自分《じぶん》が戀《こひ》の爲《た》めに斯《か》くまで苦悶《くもん》したかを、自分《じぶん》で疑《うた》がう者《もの》である。則《すなは》ち彼《かれ》は戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ》れて居《ゐ》ないからである。同《おな》じ人《ひと》ですら其通《そのとほ》り、況《いは》んや曾《かつ》て戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ
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