珍《めづら》しがるだらうと思《おも》つて居《ゐ》たのが、例《れい》の如《ごと》く簡單《かんたん》な御挨拶《ごあいさつ》だけだから張合《はりあひ》が拔《ぬ》けて了《しま》つた。新聞《しんぶん》は今朝《けさ》出《で》る前《まへ》に讀《よ》み盡《つく》して了《しま》つたし、本《ほん》を讀《よ》む元氣《げんき》もなし、眠《ねむ》くもなし、喋舌《しやべ》る對手《あひて》もなし、あくびも出《で》ないし、さて斯《か》うなると空々然《くう/\ぜん》、漠々然《ばく/\ぜん》何時《いつし》か義母《おつかさん》の氣《き》が自分《じぶん》に乘《の》り移《うつ》つて血《ち》の流動《ながれ》が次第々々《しだい/\》にのろく[#「のろく」に傍点]なつて行《ゆ》くやうな氣《き》がした。
江《え》の浦《うら》へ一|時半《じはん》の間《あひだ》は上《のぼり》であるが多少《たせう》の高低《かうてい》はある。下《くだ》りもある。喇叭《らつぱ》も吹《ふ》く、斯《か》くて棧道《さんだう》にかゝつてから第《だい》一の停留所《ていりうじよ》に着《つ》いた所《ところ》の名《な》は忘《わす》れたが此處《こゝ》で熱海《あたみ》から來《く》る人車《じんしや》と入《い》りちがへるのである。
巡査《じゆんさ》は此處《こゝ》で初《はじめ》て新聞《しんぶん》を手離《てばな》した。自分《じぶん》はホツと呼吸《いき》をして我《われ》に返《かへ》つた。義母《おつかさん》はウンともスンとも言《い》はれない。別《べつ》に我《われ》に返《かへ》る必要《ひつえう》もなく又《ま》た返《かへ》るべき我《われ》も持《もつ》て居《ゐ》られない
『此處《こゝ》で又《また》暫時《しばら》く待《ま》たされるのか。』
と眞鶴《まなづる》の巡査《じゆんさ》、則《すなは》ち張飛巡査《ちやうひじゆんさ》が言《い》つたので
『いつも此處《こゝ》で待《ま》たされるのですか。』
と自分《じぶん》は思《おも》はず問《と》ふた。
『さうとも限《かぎ》りませんが熱海《あたみ》が遲《おそ》くなると五|分《ふん》や十|分《ぷん》此處《こゝ》で待《ま》たされるのです。』
壯丁《さうてい》は車《くるま》を離《はな》れて水《みづ》を呑《の》むもあり、皆《みな》掛茶屋《かけぢやゝ》の縁《えん》に集《あつま》つて休《やす》んで居《ゐ》た。此處《こゝ》は谷間《たにま》に據《よ》る一|小村《せうそん》で急斜面《きふしやめん》は茅屋《くさや》が段《だん》を作《つく》つて叢《むらが》つて居《ゐ》るらしい、車《くるま》を出《で》て見《み》ないから能《よ》くは解《わか》らないが漁村《ぎよそん》の小《せう》なる者《もの》、蜜柑《みかん》が山《やま》の産物《さんぶつ》らしい。人車《じんしや》の軌道《きだう》は村《むら》の上端《じやうたん》を横《よこぎ》つて居《ゐ》る。
雨《あめ》がポツ/\降《ふ》つて居《ゐ》る。自分《じぶん》は山《やま》の手《て》の方《はう》をのみ見《み》て居《ゐ》た。初《はじ》めは何心《なにごころ》なく見《み》るともなしに見《み》て居《ゐ》る内《うち》に、次第《しだい》に今《いま》見《み》て居《ゐ》る前面《ぜんめん》の光景《くわうけい》は一|幅《ぷく》の俳畫《はいぐわ》となつて現《あら》はれて來《き》た。
九
軌道《レール》と直角《ちよくかく》に細長《ほそなが》い茅葺《くさぶき》の農家《のうか》が一|軒《けん》ある其《そ》の裏《うら》は直《す》ぐ山《やま》の畑《はたけ》に續《つゞ》いて居《ゐ》るらしい。家《いへ》の前《まへ》は廣庭《ひろには》で麥《むぎ》などを乾《ほ》す所《ところ》だらう、廣庭《ひろには》の突《つ》きあたりに物置《ものおき》らしい屋根《やね》の低《ひく》い茅屋《くさや》がある。母屋《おもや》の入口《いりくち》はレールに近《ちか》い方《はう》にあつて人車《じんしや》から見《み》ると土間《どま》が半分《はんぶん》ほどはすかひ[#「はすかひ」に傍点]に見《み》える。
入口《いりくち》の外《そと》の軒下《のきした》に橢圓形《だゑんけい》の据風呂《すゑぶろ》があつて十二三の少年《せうねん》が入《はひつ》て居《ゐ》るのが最初《さいしよ》自分《じぶん》の注意《ちゆうい》を惹《ひ》いた。此《この》少年《せうねん》は其《そ》の日《ひ》に燒《や》けた脊中《せなか》ばかり此方《こちら》に向《む》けて居《ゐ》て決《けつ》して人車《じんしや》の方《はう》を見《み》ない。立《た》つたり、しやがん[#「しやがん」に傍点]だりして居《ゐ》るばかりで、手拭《てぬぐひ》も持《もつ》て居《ゐ》ないらし[#「い脱カ」の注記]、又《ま》た何時《いつ》出《で》る風《ふう》も見《み》えず、三|時間《じかん》でも五|時間《じかん》でも一日でも、あ
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