自分《じぶん》が汽車《きしや》の中《なか》に在《あ》ること、旅行《りよかう》しつゝあることに氣《き》が附《つ》くだらう。全體《ぜんたい》旅《たび》をしながら何物《なにもの》をも見《み》ず、見《み》ても何等《なんら》の感興《かんきよう》も起《おこ》さず、起《おこ》しても其《それ》を折角《せつかく》の同伴者《つれ》と語《かた》り合《あつ》て更《さら》に興《きよう》を増《ま》すこともしないなら、初《はじ》めから其人《そのひと》は旅《たび》の面白《おもしろ》みを知《し》らないのだ、など自分《じぶん》は獨《ひと》り腹《はら》の中《なか》で愚痴《ぐち》つて居《ゐ》ると
『あれは何《なん》でしよう、そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の三|角《かく》の家《うち》のやうなもの。』
『どれだ。』
『そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の、そら……。』
『どの山《やま》だ』
『そら彼《あ》の山《やま》ですよ。』
『どれだよ。』
『まア貴下《あなた》あれが見《み》えないの。アゝ最早《もう》見《み》えなくなつた。』と老婦人《らうふじん》は殘念《ざんねん》さうに舌打《したうち》をした。義母《おつかさん》は一寸《ちよつ》と其方《そのはう》を見《み》たばかり此時《このとき》自分《じぶん》は思《おも》つた義母《おつかさん》よりか老婦人《らうふじん》の方《はう》が幸福《しあはせ》だと。
 そこで自分《じぶん》は『對話《たいわ》』といふことに就《つい》て考《かんが》へ初《はじ》めた、大袈裟《おほげさ》に言《い》へば『對話哲學《たいわてつがく》』又《ま》たの名《な》を『お喋舌《しやべり》哲學《てつがく》』に就《つい》て。
 自分《じぶん》は先《ま》づ劈頭《へきとう》第《だい》一に『喋舌《しやべ》る事《こと》の出來《でき》ない者《もの》は大馬鹿《おほばか》である』

        三

『喋舌《しやべ》ることの出來《でき》ないのを稱《しよう》して大馬鹿《おほばか》だといふは餘《あま》り殘酷《ひど》いかも知《し》れないが、少《すくな》くとも喋舌《しやべ》らないことを以《もつ》て甚《ひど》く自分《じぶん》で豪《え》らがる者《もの》は馬鹿者《ばかもの》の骨頂《こつちやう》と言《い》つて可《よ》ろしい而《そ》して此種《このしゆ》の馬鹿者《ばかもの》を今《いま》の世《よ》にチヨイ/\見受《みう》けるに
前へ 次へ
全18ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング