われたを機会《しお》に今ぞと思うより早くまたもくだらぬ方に話を外《はず》され、櫛を出すどころか、心はいよいよ重うなり、游ぐどころか、つまらないやら情けないやら今游ぐならば手足すくみてそのまま魚の餌《えば》ともなりなん。
『吉《きっ》さんおいでよ』とまたもやお絹呼びぬ。
『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々《そうそう》陸《おか》へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵《かたき》にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服《きもの》を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀《しろかね》の波をかき分け陸《おか》へと游ぐをちょっと見やりしのみ、途《みち》をかえて堤へ上《のぼ》り左右に繁《しげ》る萱《かや》の間を足ばやに八幡宮の方へと急ぎぬ。
 老松《おいまつ》樹《た》ちこめて神々《こうごう》しき社《やしろ》なれば月影のもるるは拝殿|階段《きざはし》の辺《あた》りのみ、物すごき木《こ》の下闇《したやみ》を潜《くぐ》りて吉次は階段《きざはし》の下《もと》に進み、うやうやしく額《ぬか》づきて祈る意《こころ》に誠をこめ、まず今日が日までの息災
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