置土産
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)餅《もち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)左右|両側《りょうそく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](明治三十三年九月作)
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餅《もち》は円形《まる》きが普通《なみ》なるわざと三角にひねりて客の目を惹《ひ》かんと企《たく》みしようなれど実は餡《あん》をつつむに手数《てすう》のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店《ちゃや》の小さいに似合わぬ繁盛《はんじょう》、しかし餅ばかりでは上戸《じょうご》が困るとの若連中《わかれんじゅう》の勧告《すすめ》もありて、何はなくとも地酒《じざけ》一杯飲めるようにせしはツイ近ごろの事なりと。
戸数《こすう》五百に足らぬ一筋町の東の外《はず》れに石橋あり、それを渡れば商家《あきんとや》でもなく百姓家でもない藁葺《わらぶ》き屋根の左右|両側《りょうそく》に建ち並ぶこと一丁ばかり、そこに八幡宮《はちまんぐう》ありて、その鳥居《とりい》の前からが片側町《かたかわまち》、三角餅の茶店《ちゃや》はこの外れにあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面《うみづら》こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望《ながめ》には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息《ひとやすみ》腰を下《お》ろすに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚《たこ》の足を肴《さかな》に一本倒せばそのまま横になりたく、置座《おきざ》の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。
永年《ながねん》の繁盛ゆえ、かいなき茶店《ちゃみせ》ながらも利得は積んで山林|田畑《でんぱた》の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人《あるじ》に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失《な》くすという始末、俳諧の一つもやる風流|気《ぎ》はありながら店にすわっていて塩焼く烟《けむり》の見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹《きぬ》お常《つね》とて一人《ひとり》は主人《あるじ》の姪《めい》、一人は女房の姪、お絹はやせ形《がた》の年上、お常は丸く肥《ふと》りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人《ふたり》は衣装《なり》にも振りにも頓着《とんちゃく》なく、糯米《もちごめ》を磨《と》ぐことから小豆《あずき》を煮ること餅を舂《つ》くことまで男のように働き、それで苦情一つ言わずいやな顔一つせず客にはよけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相《あいそ》よく茶もくんで出す、何を楽しみでかくも働くことかと問われそうで問う人もなく、感心な女とほめられそうで別に評判にも上《のぼ》らず、『いつもご精が出ます』くらいの定《き》まり文句の挨拶《あいさつ》をかけられ『どういたしまして』と軽く応えてすぐ鼻唄《はなうた》に移る、昨日《きのう》も今日《きょう》もかくのごとく、かくて春去り秋|逝《ゆ》くとはさすがにのどかなる田舎《いなか》なりけり。
茶店のことゆえ夜《よ》に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉《し》めてしまうなれど夏はそうもできず、置座《おきざ》を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人《あるじ》の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》に着かえ団扇《うちわ》を持って置座に出たところやはりどことなく艶《なまめ》かしく年ごろの娘なり。
よそから毎晩のようにこの置座に集まり来る者二、三人はあり、その一人は八幡宮神主の忰《せがれ》一人は吉次《きちじ》とて油の小売り小まめにかせぎ親もなく女房もない気楽者その他《ほか》にもちょいちょい顔を出す者あれどまずこの二人を常連と見て可なるべし。二十七年の夏も半ばを過ぎて盆の十七日踊りの晩、お絹と吉次とが何かこそこそ親しげに話して田圃《たんぼ》の方へ隠れたを見たと、さも怪しそうにうわさせし者ありたれど恐らくそれは誤解ならん。なるほど二人は内密話《ないしょばなし》しながら露|繁《しげ》き田道をたどりしやも知れねど吉次がこのごろの胸はそれどころにあらず、軍夫《ぐんぷ》となりてかの地に渡り一かせぎ大きくもうけて帰り、同じ油を売るならば資本《もとで》をおろして一構えの店を出したき心願、少し偏屈な男ゆえかかる場合に相談相手とするほどの友だちもなく、打《ぶ》ちまけて置座会議に上《のぼ》して見るほどの気軽の天稟《うまれ》にもあ
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