らず、いろいろ独《ひと》りで考えた末が日ごろ何かに付けて親切に言うてくれるお絹お常にだけ明かして見ようとまずお絹から初めるつもりにてかくはふるまいしまでなり、うたてや吉次は身の上話を少しばかり愚痴のように語りしのみにてついにその夜は軍夫の一件を打ち明け得ずしてやみぬ。何のことぞとお絹も少しは怪しく思いたれど、さりとて別に気にもとめざりしようなり。
 その次の夜《よ》も次の夜も吉次の姿見えず、三日目の夜の十時過ぎて、いつもならば九時前には吉次の出て来るはずなるを、どうした事やらきのうも今日《きょう》も油さえ売りにあるかぬは、ことによると風邪《かぜ》でも引いたか、明日《あす》は一つ様子を見に行ってやろうとうわさをすれば影もありありと白昼《ひるま》のような月の光を浴びてそこに現われ、
『皆さん今晩は』といつになきまじめなる挨拶《あいさつ》、黙って来て黙って腰をかけあくびの一つもするがこの男の柄なるを、さりとは変なと気づきし者もあり気づかない者もあり、その内にもお絹はすこぶる平気にて、
『吉さんどうかしたの。』
『少し風邪を引いて二日ばかり休みました』と自ら欺き人をごまかすことのできざる性分のくせに嘘《うそ》をつけば、人々疑わず、それはそれはしかしもうさっぱりしたかねとみんなよりいたわられてかえってまごつき、
『ありがとう、もうさっぱりとしました。』
『それは結構だ。時に吉さん女房《にょうぼ》を持つ気はないかね』と、突然《だしぬけ》におかしな事を言い出されて吉次はあきれ、茶店の主人《あるじ》幸衛門《こうえもん》の顔をのぞくようにして見るに戯談《じょうだん》とも思われぬところあり。
『ヘイ女房ね。』
『女房をサ、何もそんなに感心する事はなかろう、今度のようなちよっとした風邪《かぜ》でも独身者《ひとりもの》ならこそ商売《あきない》もできないが女房がいれば世話もしてもらえる店で商売もできるというものだ、そうじゃアないか』と、もっともなる事を言われて、二十八歳の若者、これが普通《なみ》ならば別に赤い顔もせず何分よろしくとまじめで頼まぬまでも笑顔《えがお》でうけるくらいはありそうなところなれど吉次は浮かぬ顔でよそを向き
『どうして養いましょう今もらって。』
『アハハハハハ麦飯を食わして共稼《ともかせ》ぎをすればよかろう、何もごちそうをして天神様のお馬じゃアあるまいし大事に飼って置くこともない。』
『吉さんはきっとおかみさんを大事にするよ』と、女は女だけの鑑定《みたて》をしてお常正直なるところを言えばお絹も同意し
『そうらしいねエ』と、これもお世辞にあらず。
『イヤこれは驚いた、そんなら早い話がお絹さんお常さんどちらでもよい、吉さんのところへ押しかけるとしたらどんな者だろう』と、神主の忰《せがれ》の若旦那《わかだんな》と言わるるだけに無遠慮なる言い草、お絹は何と聞きしか
『そんならわたしが押しかけて行こうか、吉《きっ》さんいけないかね。』
『アハハハハハばかを言ってる、ドラ寝るとしよう、皆さんごゆっくり』と、幸衛門の叔父《おじ》さん歳《とし》よりも早く禿《は》げし頭をなでながら内に入りぬ。
『わたしも帰って戦争の夢でも見るかな』と、罪のない若旦那の起《た》ちかかるを止めるように
『戦争はまだ永く続きそうでございますかな』と吉次が座興ならぬ口ぶり、軽く受けて続くとも続くともほんとの戦争はこれからなりと起《た》ち上がり
『また明日《あす》の新聞が楽しみだ、これで敗戦《まけいくさ》だと張り合いがないけれど我軍《こっち》の景気がよいのだから同じ待つにも心持ちが違うよ。』お寝《やす》みと帰ってしまえば後《あと》は娘二人と吉次のみ、置座《おきざ》にわかに広うなりぬ。夜はふけ月さえぬれど、そよ吹く風さえなければムッとして蒸し熱き晩なり。吉次は投げるように身を横にして手荒く団扇《うちわ》を使いホッとつく嘆息《ためいき》を紛らせばお絹
『吉《きっ》さんまだ風邪がさっぱりしないのじゃアないのかね。』
『風邪を引いたというのは嘘《うそ》だよ。』
『オヤ嘘なの、そんならどうしたの。』
『どうもしないのだよ。』
『おかしな人だ人に心配させて』とお絹は笑うて済ますをお常は
『イヤ何か吉さんは案じていなさるようだ。』
『吉さんだって少しは案じ事もあろうよ、案じ事のないものは馬鹿《ばか》と馬鹿《うましか》だというから。』
『まだある若旦那』と小さな声で言うお常もその仲間なるべし。
それよりか海に行《い》こうとお絹の高い声に、店の内にて、もう遅《おそ》いゆえやめよというは叔父なり、
『叔父さんまだ起きていたの、今|汐《しお》がいっぱいだからちょっと浴びて来ます浅いところで。』
『危険《あぶない》危険《あぶない》遅いから。』
『吉さんにいっしょに行ってもらいます。』
『そんならいい
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