けれども。』
さアと促されて吉次も仕方なく連れだって行けば、お絹は先に立ち往来を外《はず》れ田の畔《くろ》をたどり、堤の腰を回《めぐ》るとすぐ海なり。沖はよく和《な》ぎて漣《さざなみ》の皺《しわ》もなく島山の黒き影に囲まれてその寂《しずか》なるは深山《みやま》の湖水かとも思わるるばかり、足もとまで月影澄み遠浅《とおあさ》の砂白く水底《みなそこ》に光れり。磯《いそ》高く曳《ひ》き上げし舟の中にお絹お常は浴衣《ゆかた》を脱ぎすてて心地《ここち》よげに水を踏み、ほんに砂粒まで数えらるるようなと、海近く育ちて水に慣れたれば何のこわいこともなく沖の方へずんずんと乳の辺《あた》りまで出《い》ずるを吉次は見て懐《ふところ》に入れし鼈甲《べっこう》の櫛《くし》二板紙に包《くる》んだままをそっと袂《たもと》に入れ換えて手早く衣服《きもの》を脱ぎ、そう沖へ出ないがいいと言い言い二人のそばまで行けば
『吉さんごらんよ、そら足の爪《つめ》まで見えるから』とお常が言うに吉次
『もうここらで帰ろうよ。』
『背のとどかないところまで出ないと游《およ》いだ気がしないからわたしはもすこし沖へ出るよ』とお絹はお常を誘うて二人の身体《からだ》軽《かろ》く浮かびて見る見る十四、五間先へ出《い》でぬ。
『いい心持ちだ吉さんおいでよ』と呼ぶはお絹なり、吉次は腕を組んで二人の游ぐを見つめたるまま何とも答えず。いつもならばかえって二人に止めらるるほど沖へ出てここまでおいでとからかい半分おもしろう游ぐだけの遠慮ない仲なれど、軍夫を思い立ちてより何事も心に染まず、十七日の晩お絹に話しそこねて後はわれ知らずこの女に気が置かれ相談できず、独《ひと》りで二日三日商売もやめて考えた末、いよいよ明日《あす》の朝早く広島へ向けて立つに決めはしたものの餅屋の者にまるっきり黙ってゆく訳にゆかず、今宵《こよい》こそ幸衛門にもお絹お常にも大略《あらまし》話して止めても止まらぬ覚悟を見せん、運悪く流れ弾《だま》に中《あた》るか病気にでもなるならば帰らぬ旅の見納めと悲しいことまで考えて、せめてもの置土産《おきみやげ》にといろいろ工夫したあげく櫛二枚を買い求め懐《ふところ》にして来たのに、幸衛門から女房をもらえと先方は本気か知らねど自分には戯談《じょうだん》よりもつまらぬ話を持ち出されてまず言いそこね、せっかくお常から案じ事のあるらしゅう言われたを機会《しお》に今ぞと思うより早くまたもくだらぬ方に話を外《はず》され、櫛を出すどころか、心はいよいよ重うなり、游ぐどころか、つまらないやら情けないやら今游ぐならば手足すくみてそのまま魚の餌《えば》ともなりなん。
『吉《きっ》さんおいでよ』とまたもやお絹呼びぬ。
『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々《そうそう》陸《おか》へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵《かたき》にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服《きもの》を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀《しろかね》の波をかき分け陸《おか》へと游ぐをちょっと見やりしのみ、途《みち》をかえて堤へ上《のぼ》り左右に繁《しげ》る萱《かや》の間を足ばやに八幡宮の方へと急ぎぬ。
老松《おいまつ》樹《た》ちこめて神々《こうごう》しき社《やしろ》なれば月影のもるるは拝殿|階段《きざはし》の辺《あた》りのみ、物すごき木《こ》の下闇《したやみ》を潜《くぐ》りて吉次は階段《きざはし》の下《もと》に進み、うやうやしく額《ぬか》づきて祈る意《こころ》に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍《いくさ》の巷《ちまた》危うきを犯し、露に伏し雨風に打たるる身の上を守りたまえと祈念し、さてその次にはめでたく帰国するまで幸衛門を初めお絹お常らの身に異変なく来年の夏またあの置座《おきざ》にて夕《ゆうべ》涼しく団居《まどい》する中にわれをも加えたまえと祈り終わりてしばしは頭《かしら》を得上げざりしが、ふと気が付いて懐《ふところ》を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱《さいせんばこ》の上に置き、他《ほか》の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣《さんけい》するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。
お絹とお常は吉次の去った後《あと》そこそこに陸《おか》へ上がり体《からだ》をふきながら
『お常さん、これからちょいと吉さんの宅《うち》をのぞいて見ようよ、様子が変だからわたしは気になる。』
『明日《あす》朝早くにおしよ、お詣《まい》りを済ましてすぐまわって見ようよ。あんまり遅《おそ》くなると叔父さんに悪いから。』
『そうね』とお絹もしいては勧めかね道々二人は肩をすり
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