寄せ小声に節《ふし》を合わして歌いながら帰りぬ。
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若い者のにわかに消えてなくなる、このごろはその幾人というを知らず大概は軍夫と定《き》まりおれば、吉次もその一人ぞと怪しむ者なく三角餅の茶店のうわさも七十五日|経《た》たぬ間《ま》に吉次の名さえ消えてなくなりぬ。お絹お常のまめまめしき働きぶり、幸衛門の発句《ほっく》と塩、神主の忰《せがれ》が新聞の取り次ぎ、別に変わりなく夏過ぎ秋|逝《ゆ》きて冬も来にけり。身を切るような風吹きて霙《みぞれ》降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉《し》めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉《なぐさみ》なく堅い男ゆえ炬燵《こたつ》へ潜《もぐ》って寝そべるほどの楽もせず火鉢《ひばち》を控えて厳然《ちゃん》と座《すわ》り、煙草《たばこ》を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。
『猿《さる》も小簔《こみの》をほしげなりというのは今夜のような晩だな。』
『そうね』とお絹が応《こた》えしままだれも対手《あいて》にせず、叔母《おば》もお常も針仕事に余念なし。家内《やうち》ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。
『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然《だしぬけ》の大きな声に、
『わたしも今それを思っていたのよ』とお絹は針の手をやめて叔父の方を見れば叔父も心配らしいまじめな顔つき。
『叔父さんあっちは大変寒いところだというじゃアありませんか』とお常は自分の足袋《たび》の底を刺しながら言いぬ。
『なに吉さんはあの身体《からだ》だもの寒《かん》にあてられるような事もあるまい』と叔母は針の目を通しながら言えり。
『イヤそうも言えない随分ひどいという事だから』と叔父のいうに随《つ》いてお絹
『大概にして帰って来なさればよいに、いくらお金ができても身体《からだ》を悪くすれば何にもなりゃアしない。』
『ナニあの男の事だからいったんかせぎに出たからにはいくらかまとまった金を握るまでは帰るまい、堅い珍しい男だからどうか死なしたくないものだ。』
『ほんとにね』とお絹は口の中《うち》、叔母は大きな声で
『大丈夫、それにあの人は大酒を飲むの何のと乱暴はしないし』と受け合い、鬢《びん》の乱《ほつれ》を、うるさそうにかきあげしその櫛《くし》は
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