吉次の置土産《おきみやげ》、あの朝お絹お常の手に入りたるを、お常は神のお授けと喜び上等ゆえ外出行《よそゆ》きにすると用箪笥《ようだんす》の奥にしまい込み、お絹は叔母に所望《しょもう》されて与えしなり。
 二十八年三月の末お絹が親もとより二日ばかり暇をもろうて帰り来《こ》よとの手紙あり、珍しき事と叔父幸衛門も怪しみたれどともかくも帰って見るがよかろうと三里離れし在所の自宅へお絹は三角餅を土産に久しぶりにて帰りゆきぬ。何《なん》ぞと思えば嫁に行けとの相談なり。継母《ままはは》の腹は言うまでもなく姉のお絹を外に出して自分の子、妹のお松を後《あと》に据えたき願い、それがあるばかりにお絹と継母《ままはは》との間おもしろからず理屈をつけて叔父幸衛門にお絹はあずけられかれこれ三年の間お絹のわが家に帰りしは正月一度それも機嫌《きげん》よくは待遇《あしら》われざりしを、何のかのと腹にもない親切を言われ先方《さき》は田が幾町山がこれほどある、婿はお前も知っているはずと説かれてお絹は何と答えしぞ。その夜七時ごろ町なる某《なにがし》という旅人宿《はたごや》の若者三角餅の茶店に来たり、今日これこれの客人見えて幸衛門さんに今からすぐご足労を願いますとのことなり。幸衛門は多分塩の方の客筋ならんと早速《さっそく》まかり出《い》でぬ。
 次の日奥の一室《ひとま》にて幸衛門腕こまぬき、茫然《ぼうぜん》と考えているところへお絹在所より帰り、ただいまと店に入《はい》ればお常はまじめな顔で
『叔父さんが奥で待っていなさるよ、何か話があるって。』
お絹にも話あり、いそいそと中庭から上がれば叔父の顔色ただならず、お絹もあらたまって
『叔父さんただいま、自宅《うち》からもよろしくと申しました。』
『用事は何であったね、縁談じゃアなかったか。』
『そうでございました、難波《なんば》へ嫁にゆけというのであります。』
『お前はどうして』と問われてお絹ためらいしが
『叔父さんとよく相談してと生《なま》返事をして置きました。』
『そうか』と叔父は嘆息《ためいき》なり。
『叔父さんのご用というのは何。』
『用というのではないがお前驚いてはいけんよ、吉さんはあっちで病死したよ。』
『マあ!』とお絹は蒼《あお》くなりて涙も出《い》でず。
『実はわたしも驚いてしまったのだ、昨夜《ゆうべ》何屋の若者が来て、これこれの客人がすぐ来てく
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