われたを機会《しお》に今ぞと思うより早くまたもくだらぬ方に話を外《はず》され、櫛を出すどころか、心はいよいよ重うなり、游ぐどころか、つまらないやら情けないやら今游ぐならば手足すくみてそのまま魚の餌《えば》ともなりなん。
『吉《きっ》さんおいでよ』とまたもやお絹呼びぬ。
『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々《そうそう》陸《おか》へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵《かたき》にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服《きもの》を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀《しろかね》の波をかき分け陸《おか》へと游ぐをちょっと見やりしのみ、途《みち》をかえて堤へ上《のぼ》り左右に繁《しげ》る萱《かや》の間を足ばやに八幡宮の方へと急ぎぬ。
老松《おいまつ》樹《た》ちこめて神々《こうごう》しき社《やしろ》なれば月影のもるるは拝殿|階段《きざはし》の辺《あた》りのみ、物すごき木《こ》の下闇《したやみ》を潜《くぐ》りて吉次は階段《きざはし》の下《もと》に進み、うやうやしく額《ぬか》づきて祈る意《こころ》に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍《いくさ》の巷《ちまた》危うきを犯し、露に伏し雨風に打たるる身の上を守りたまえと祈念し、さてその次にはめでたく帰国するまで幸衛門を初めお絹お常らの身に異変なく来年の夏またあの置座《おきざ》にて夕《ゆうべ》涼しく団居《まどい》する中にわれをも加えたまえと祈り終わりてしばしは頭《かしら》を得上げざりしが、ふと気が付いて懐《ふところ》を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱《さいせんばこ》の上に置き、他《ほか》の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣《さんけい》するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。
お絹とお常は吉次の去った後《あと》そこそこに陸《おか》へ上がり体《からだ》をふきながら
『お常さん、これからちょいと吉さんの宅《うち》をのぞいて見ようよ、様子が変だからわたしは気になる。』
『明日《あす》朝早くにおしよ、お詣《まい》りを済ましてすぐまわって見ようよ。あんまり遅《おそ》くなると叔父さんに悪いから。』
『そうね』とお絹もしいては勧めかね道々二人は肩をすり
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