さなかったが心には無論それが有たのである。
「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上《たちあ》がりながら「然《けれ》ども先《ま》ア関係《かかりあ》わんが可い」
 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。
 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常《いつ》も夕方には必然《きっと》水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。
 日が暮て一時間も経《たっ》てから磯吉が水を汲みに来た。

        下

 お源は真蔵に見られても巧《うま》く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下《みおろ》した時は土竈炭《どがまずみ》を袂《たもと》に入れ佐倉炭《さくら》を前掛に包んで左の手で圧《おさ》え、更に一個《ひとつ》取ろうとするところであったが、元来|性質《ひと》の良い邪推などの無い旦那《だんな》だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
 そこで磯吉が仕事から帰る前に布団《ふとん》を被《かぶ》って寝て了《しま》った。寝たって眠むられは仕ない。垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌《しの》げるが一人では板のようにしゃちっ[#「しゃちっ」に傍点]張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄《ふる》えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知《うけとれ》ん位だ。
 色々考えると厭悪《いや》な心地《きもち》がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達《せんだって》からちょく[#「ちょく」に傍点]ちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的《あきらか》に人目を忍んで他《ひと》の物を取ったのは今度が最初《はじめて》であるから一念|其処《そこ》へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖《おそれ》も羞恥《はじ》も籠《こも》っていた。
 眼前《めのさき》にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然《はっきり》出て来る、そしてテレ[#「テレ」に傍点]隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「真実《ほんとう》にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々《そろそろ》逆上気味になっ
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