兒《わがこ》の顏《かほ》を見《み》つめて居たが『それはお前《まへ》、本氣《ほんき》か。』
『本氣《ほんき》だよ親父《おとつ》さん! ラクダルさんのやうに私《わたし》も怠惰屋《なまけや》になるのだ。』
 親父《おやぢ》といふは煙管《パイプ》の旋盤細工《ろくろざいく》を業《げふ》として居る者《もの》で、鷄《とり》の鳴《な》く時から日の晩《くれ》るまで旋盤《ろくろ》の前《まへ》を動《うご》いたことのない程の、ブリダア市《まち》では珍《めづ》らしい稼人《かせぎにん》であるから、兒童《こども》の言《い》ふ處《ところ》を承知《しようち》する筈《はず》もない。
『馬鹿を言《い》ふな! お前は乃父《おれ》のやうに旋盤細工《ろくろざいく》を商業《しやうばい》にするか、それとも運《うん》が可《よ》くばお寺《てら》の書役《かきやく》にでもなるのだ。怠惰屋《なまけや》なぞになられて堪《たま》るものか、學校《がくかう》へ行《ゆ》くのが慊《いや》なら櫻《さくら》の木《き》の皮《かは》を剥《むか》すが可《よ》いか、サア如何《どう》だ此《この》大《おほ》たわけめ!』
 櫻《さくら》の皮《かは》を剥《むか》されては大變《たいへん》と、兒童《こども》は早速《さつそく》親父《おやぢ》の言《い》ふ通《とほ》りになつて其《その》翌日《よくじつ》から平常《いつも》の如《ごと》く學校《がくかう》へ行《ゆ》く風《ふう》で家《うち》を出《で》た。けれども決《けつ》して學校《がくかう》には行《い》かない。
 市街《まち》の中程《なかほど》に大《おほ》きな市場《いちば》がある、兒童《こども》は其處《そこ》へ出かけて、山のやうに貨物《くわもつ》の積《つん》である中《なか》にふんぞり返《かへ》つて人々《ひと/″\》の立騒《たちさわ》ぐのを見《み》て居る。金絲の綉《ぬひはく》をした上衣《うはぎ》を日《ひ》に煌《きらめ》かして行《ゆ》く大買人《おほあきんど》もあれば、重《おも》さうな荷物を脊負《しよつ》てゆく人足《にんそく》もある、香料《かうれう》の妙《たへ》なる薫《かほり》が折《を》り/\生温《なまぬく》い風につれて鼻《はな》を打つ、兒童《こども》は極樂《ごくらく》へでも行《い》つた氣になつて、茫然《ぼんやり》と日の晩《くれ》るまで斯《か》うして居《ゐ》た。次《つぎ》の日《ひ》も次《つぎ》の日《ひ》も、此兒《このこ》の影《か
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング