て明晩《みやうばん》来て呉《く》れまいか――といふのである。
 明晩とは今夜である銀之助はしみ/″\静《しづ》の不幸《ふしあはせ》を思つた。静《しづ》は男に愛着《おも》はれ又《ま》た男を愛着《おも》ふ女である。そして可憐《かれん》で正直で怜悧《れいり》な女であるが不思議と関係のない者からは卑《いや》しい人間のやうに思はれる女で実に何者にか詛《のろ》はれて居るのではないかと思つた。しかし銀之助には以前《もと》の恋の情《こゝろ》は少《すこし》もなかつた。
 どうせ飛び出すのだ、何しろ訪ねて見ようと銀之助は先《ま》づ懐中《くわいちゆう》を改めると五円札が一枚と余《あと》は小銭《こせん》で五六十銭あるばかり。これでも仕方がない不足の分は先方《むかふ》の様子を見てからの事と直《す》ぐ下に降《お》りた。
『房《ふさ》、遅くなつたら閉《し》めても可《い》いよ。』
『アラ如何《どう》してもお出《で》になりますので御座《ござ》いますか。』と房《ふさ》はきよと/\して気が気でない。
『何《な》に心配しないでも可《い》いよ。奥様《おくさん》に急に用が出来たから出たつて言つてお呉《く》れ。』
 外は星夜《ほしづくよ》で風の無い静かな晩である。左へ廻《まが》れば公園脇の電車道、銀之助は右に折れてお濠辺《ほりばた》の通行《ひとゞほり》のない方を選んだ。ふと気が着いて自家《じたく》から二三丁先の或家《あるいへ》の瓦斯燈《がすとう》で時計を見ると八時|過《すぎ》である。
 外で冷《ひやゝ》かな空気に触れると酔《よひ》が足りない。もすこし飲んで出れば可《よ》かつたと思つた。
 愛宕町《あたごちやう》は七八丁の距離しかないので銀之助は静《しづ》のこと、今の妻《さい》の元子《もとこ》のことを考へながら、歩《あゆ》むともなく、徐々《のろ/\》歩《あ》るいた。
 成程《なるほど》比べて見ると静《しづ》には何処《どこ》か卑《いや》しいところがあつて、元子にはそれがない。
 静《しづ》の卑《いや》しいやうに他《ひと》から思はれるところは何故《なぜ》であるかと考へた。静《しづ》には何処《どこ》かに色ッぽい風《ふう》がある。女性《によせい》にはなくてならぬ節操《みさを》といふ釘《くぎ》が一|本《ぽん》足りないで、其《その》為《た》め身体《からだ》全体に『たるみ』が出来て居る、其《その》『たるみ』が卑《いや》しい色を
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