て打ちえみつ、詩人の優しき頬《ほお》にかわるがわる接吻《くちづけ》して、安けく眠りたまえと言い言い出《い》で去りたり。
あくれば日曜日の朝、詩人は寝《ね》ざめの床に昨夜の夢を想《おも》い起こしぬ。夢に天津乙女《あまつおとめ》の額《ひたえ》に紅《くれない》の星|戴《いただ》けるが現われて、言葉なく打ち招くままに誘われて丘にのぼれば、乙女は寄りそいて私語《ささや》くよう、君は恋を望みたもうか、はた自由を願いたもうかと問うに、自由の血は恋、恋の翼《つばさ》は自由なれば、われその一を欠く事を願わずと答う、乙女ほほえみつ、さればまず君に見するものありと遠く西の空を指《さ》し、よく眼《まなこ》定めて見たまえと言いすてていずこともなく消え失《う》せたり。詩人はこの夢を思い起こすや、跳《は》ね起きて東雲《しののめ》の空ようやく白きに、独《ひと》り家を出《い》で丘に登りぬ。西の空うち見やれば二つの小さき星、ひくく地にたれて薄き光を放てり、しばらくして東の空|金色《こんじき》に染まり、かの星の光|自《おのず》から消えて、地平線の上に現われし連山の影|黛《まゆずみ》のごとく峰々に戴く雪の色は夢よりも淡し、詩人が心は恍惚《こうこつ》の境に鎔《と》け、その目には涙あふれぬ。これ壮年の者ならでは知らぬ涙にて、この涙のむ者は地上にて望むもかいなき自由にあこがる。しかるに壮年の人よりこの涙を誘うもののうちにても、天外にそびゆる高峰《たかね》の雪の淡々《あわあわ》しく恋の夢路を俤《おもかげ》に写したらんごときに若《し》くものあらじ。
詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方《かた》を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂《た》るる黒髪《こくはつ》風にゆらぎ昇《のぼ》る旭《あさひ》に全身かがやけば、蒼空《あおぞら》をかざして立てる彼が姿はさながら自由の化身とも見えにき。[#地から2字上げ](二十九年十一月作)
底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
1896
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