その枝に飛びつこうとしたに相違ありません。
 死骸《なきがら》を葬った翌々日、私はひとり天主台に登りました。そして六蔵のことを思うと、いろいろと人生不思議の思いに堪えなかったのです。人類と他の動物との相違。人類と自然との関係。生命と死などいう問題が、年若い私の心に深い深い哀《かな》しみを起こしました。
 イギリスの有名な詩人の詩に「童《わらべ》なりけり」というがあります。それは一人の子供が夕べごとにさびしい湖水のほとりに立って、両手の指を組み合わして、梟《ふくろ》の鳴くまねをすると、湖水の向こうの山の梟がこれに返事をする、これをその童《わらべ》は楽しみにしていましたが、ついに死にまして、静かな墓に葬られ、その霊《たま》は自然のふところに返ったというこころを詠じたものであります。
 私はこの詩がすきで常に読んでいましたが、六蔵の死を見て、その生涯《しょうがい》を思うて、その白痴を思う時は、この詩よりも六蔵のことはさらに意味あるように私は感じました。
 石垣《いしがき》の上に立って見ていると、春の鳥は自在に飛んでいます。その一つは六蔵ではありますまいか。よし六蔵でないにせよ、六蔵はその鳥とどれだけちがっていましたろう。

       ※[#アステリズム、1−12−94]

 哀れな母親は、その子の死を、かえって子のために幸福《しやわせ》だと言いながらも泣いていました。
 ある日のことでした、私は六蔵の新しい墓におまいりするつもりで城山の北にある墓地にゆきますと、母親が先に来ていてしきりと墓のまわりをぐるぐる回りながら、何かひとりごとを言っている様子です。私の近づくのを少しも知らないと見えて、
「なんだってお前は鳥のまねなんぞした、え、なんだって石垣《いしがき》から飛んだの?……だって先生がそう言ったよ、六さんは空を飛ぶつもりで天主台の上から飛んだのだって。いくら白痴《ばか》でも、鳥のまねをする人がありますかね、」と言って少し考えて「けれどもね、お前は死んだほうがいいよ。死んだほうが幸福《しやわせ》だよ……」
 私に気がつくや、
「ね、先生。六は死んだほうが幸福《しやわせ》でございますよ、」と言って涙をハラハラとこぼしました。
「そういう事もありませんが、なにしろ不慮の災難だからあきらめる[#「あきらめる」に傍点]よりいたしかたがありませんよ……」
「けれど、なぜ鳥のま
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