ふ》、三《み》という言葉と、その言葉が示す数の観念とは、この子供の頭になんの関係をも持っていないのです。
白痴に数の観念の欠けていることは聞いてはいましたが、これほどまでとは思いもよらず、私もある時は泣きたいほどに思い、子供の顔を見つめたまま、涙がひとりでに落ちたこともありました。
しかるに六蔵はなかなかの腕白者《わんぱくもの》で、いたずらをするときはずいぶん人を驚かすことがあるのです。山登りがじょうずで、城山を駆け回るなどまるで平地を歩くように、道のあるところ無い所、サッサと飛ぶのです。ですからこれまでも、田口の者が六蔵はどこへ行ったかと心配していると、昼飯を食ったまま出て日の暮れ方になって、城山の崖《がけ》から田口の奥庭にひょっくり飛びおりて帰って来るのだそうです。木拾いの娘が六蔵の姿を見て逃げ出したのは、きっとこれまで幾度となくこの白痴の腕白者におどされたものと私も思い当たったのであります。
けれどもまた六蔵はじきに泣きます。母親が兄の手前を兼ねておりおりひどくしかることがあり、手の平で打つこともあります、その時は頭をかかえ身を縮めて泣き叫びます。しかしすぐと笑っているさまは、打たれたことをすっかり忘れてしまったらしく、これを見て私は、なおさらこの白痴の痛ましいことを感じました。
かかるありさまですから、六蔵が歌など知っているはずもなさそうですが、知っています。木拾いの歌うような俗歌をそらんじて、おりおり低い声でやっています。
ある日私は一人で城山に登りました、六蔵を連れてと思いましたが、姿が見えなかったのです。
冬ながら九州は暖国ゆえ、天気さえよければごく暖かで、空気は澄んでいるし、山登りにはかえって冬がよいのです。
落葉《らくよう》を踏んで頂に達し、例の天主台の下までゆくと、寂々《せきせき》として満山声なきうちに、何者か優しい声で歌うのが聞こえます、見ると天主台の石垣《いしがき》の角《かど》に、六蔵が馬乗りにまたがって、両足をふらふら動かしながら、目を遠く放って俗歌を歌っているのでした。
空の色、日の光、古い城あと、そして少年、まるで絵です。少年は天使です。この時私の目には、六蔵が白痴とはどうしても見えませんでした。白痴と天使、なんという哀れな対照でしょう。しかし私はこの時、白痴ながらも少年はやはり自然の子であるかと、つくづく感じました。
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