だけは前の晩寝冷えをしたので身体の具合が悪く、宵から戸を閉めて床に就《つ》きました。なんでも十時ごろまで外はがやがや話し声が聞えていましたがそのうちだんだん静かになりお俊もおとなしく内に引っ込んだらしかったのです。私は眠られないのと熱《あ》つ苦しいとで、床を出ましてしばらく長火鉢の傍《そば》でマッチで煙草を喫《す》っていましたが、外へ出て見る気になり寝衣《ねまき》のままフイと路地に飛び出しました。路地にはもう誰もいないのです。路地から通りに出ますと、月が傾いてちょうど愛宕山の上にあるのでございます。外はさすがに少しは風があるのでそこからぶらぶら歩いていますと、向うから一人の男が、何かぶつぶつ口小言を云いながらやって参ります、その様子が酔っぱらいらしいので私は道を避けていますとよろよろと私の前に来て顔を上げたのを見れば藤吉でございました。
藤吉は私を見るやいきなり、
『イヤ大将、うめえところで遇《あ》った、今これからお前さんとこへ、押しかけるとこなんだ。サア家へ帰れ、今夜こそおれは勘弁ならんのだ、どうしてもお前さんに聞いてもらうことがあるんだ』と私の手を取ってグイグイ路地の方へ引っ張って参るのでございます。
私も酔っぱらいと思いまして『よしよし、サア帰ろう、なんでも聞こう』と一しょに連れ立って家に入りました。
藤吉の顔を見ると凄《すご》いほど蒼《あお》ざめて眼が坐《すわ》っているのでございます。坐るが早いか、
『サア聞いてくれ、私はもうどうしても勘弁がならんのだ』と、それから巻舌で長々と述べ立てましたところを聞きますと、つまりこうなんです、藤吉がその日仲間の者四五人と一しょにある所《とこ》で一杯やりますと、仲間の一人がなんかのはずみから藤吉と口論を初めました。互いに悪口|雑言《ぞうごん》をし合っていますうちに、相手の男が、親方のお古を頂戴してありがたがっているような意久地なしは黙って引っ込めと怒鳴ったものとみえます。それが藤吉にグッと癪《しゃく》に触りましたというものは、これまでに朋輩からお俊は親方が手をつけて持て余したのを藤吉に押しつけたのだというあてこすりを二三度聞かされましたそうで、それを藤吉が人知れず苦にしていた矢先、またもやこういうて罵《のの》しられたものですから言うに言われぬ不平が一度に破裂したのでございます、よけいなお世話だ、親方のお古ならどうした
前へ
次へ
全25ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング