女難
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ある四辻《よつつじ》の隅《すみ》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)悠々たる一|寰区《かんく》が作られている

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)山※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]《やまばえ》
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     一

 今より四年前のことである、(とある男が話しだした)自分は何かの用事で銀座を歩いていると、ある四辻《よつつじ》の隅《すみ》に一人の男が尺八を吹いているのを見た。七八人の人がその前に立っているので、自分もふと足を止めて聴《き》く人の仲間に加わった。
 ころは春五月の末で、日は西に傾いて西側の家並みの影が東側の家の礎《いしずえ》から二三尺も上に這《は》い上っていた。それで尺八を吹く男の腰から上は鮮《あざ》やかな夕陽《ゆうひ》に照されていたのである。
 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車《くるま》の東西に駈《か》けぬける車輪の音、途《みち》を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然《ゆうぜん》と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目には彼が半身に浴びている春の夕陽までがいかにも静かに、穏やかに見えて、彼の尺八の音の達《とど》く限り、そこに悠々たる一|寰区《かんく》が作られているように思われたのである。
 自分は彼が吹き出づる一高一低、絶えんとして絶えざる哀調を聴きながらも、つらつら彼の姿を看《み》た。
 彼は盲人《めくら》である。年ごろは三十二三でもあろうか、日に焼けて黒いのと、垢《あか》に埋《うず》もれて汚ないのとで年もしかとは判じかねるほどであった。ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街《ちまた》の塵《ちり》に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被《かぶ》るのであろう。容貌《かおだち》は長い方で、鼻も高く眉毛《まゆげ》も濃く、額は櫛《くし》を加えたこともない蓬々《ぼうぼう》とした髪《け》で半ばおおわれているが、見たところほどよく発達し、よく下品な人に見るような骨張ったむげに凸起《とっき》した額ではない。
 音の力
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