、やがてまた吹き初めた。指端《したん》を弄して低き音の縷《いと》のごときを引くことしばし、突然中止して船端《ふなばた》より下りた。自分はいきなり、
「あんまさん、私の宅《うち》に来て、少し聞かしてくれんか」
「ヘイ、ヘイー」と彼は驚いたように言って急に自分の顔を見て、そしてまた頭を垂れ首を傾け「ヘイ、どちら様へでも参ります」
「ウン、それじゃ来ておくれ」と自分は先に立った。
「お前の眼は全く見えないのかね」と四五歩にして振り返りさま自分は問うた。
「イイエ、右の方は少し見えるのでございます」
「少しでも見えれば結構だね」
「ヘエ、ヘヘヘヘヘ」と彼は軽《かろ》く笑ったが「イヤなまじすこしばかり見えるのもよくございません、欲が出ましてな」
「オイ橋だぞ」と溝《みぞ》にかけし小橋に注意して「けれども全く見えなくちゃアこんなところまで来て稼《かせ》ぐわけにゆかんではないか」
「稼ぐのならようございますが流がすので……」
「お前どこだイ、生まれは」
「生まれは西でございます、ヘイ」
「私はお前をこの春、銀座で見たことがある、どういうものかその時から時々お前のことを思いだすのだ、だから今もお前の顔を一目見てすぐ知った」
「ヘイそうでございますか、イヤもう行き当りばったりで足の向き次第、国々を流して歩るくのでございますからどこでどなた様に逢《あ》いますことやら……」
途《みち》で二三の年若い男女に出遇《であ》った。軽雲一片月をかざしたのであたりはおぼろになった。手風琴の軽い調子が高い窓から響く。間もなく自分の宅《うち》に着いた。
三
縁辺《えんがわ》に席を与えて、まず麦湯一杯、それから一曲を所望した。自分は尺八のことにはまるで素人であるから、彼が吹くその曲の善《よ》し悪《あ》し、彼の技の巧拙はわからないけれども、心をこめて吹くその音色の脈々としてわれに迫る時、われ知らず凄動《せいどう》したのである。泣かんか、泣くにはあまりに悲哀《かなしみ》深し、吹く彼れはそもそもなんの感ずることなきか。
曲終れば、音を売るものの常として必ず笑み、必ず謙遜の言葉の二三を吐くなるに反して、彼は黙然として控え、今しもわが吹き終った音の虚空に消えゆく、消えゆきし、そのあとを逐《お》うかと思わるるばかりであった。
自分は彼の言葉つき、その態度により、初めよりその身の上に潜める物語りの
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