当がつかなかったのでございます。母は叔母の家から私の学資を出さそうとしたらしゅうございました。これが都合よく参りませんものですから、私の立身を堅く信じながらも、ただそれは漠《ばく》としたことで、実は内々ひどく心痛したものと見えます。それですから母としてはただ女難を戒しめるほかに私の立身の方法はなかったのでございます。私はまたうまれつき意気地がないのかして、自分の立身のことにはどういうものかあまり気をかけませんでした。ただ母に急に別れたので、その当坐の悲しさ、一月二月は叔母の家にいても、どうかすると人の見ぬところで、めそめそ泣いておりました。
 月日の経つうちに悲しみもだんだん薄らぎ、しまいには時々思い出すぐらいのことで、叔母の親切にほだされ、いつしか叔母を母のように思うて日を送るようになったのでございます。
 十八の歳から、叔母の家を五丁ばかり離れた小学校に通って、同僚の三四人とともに村の子供の世話をして、夜は尺八の稽古に浮身をやつし、この世を面白おかしく暮すようになりました。尺八の稽古といえば、そのころ村に老人《としより》がいまして、自己流の尺八を吹いていましたのを村の若い者が煽《おだ》てて大先生のようにいいふらし、ついに私もその弟子分になったのでございます。けれども元大先生からして自己流ですから弟子も皆な自己流で、ただむやみと吹くばかり、そのうち手が慣れて来れば、やれ誰が巧いとか拙《まず》いとかてんでに評判をし合って皆なで天狗《てんぐ》になったのでございます。私の性質《うまれつき》でありましょうか、私だけは若い者の中でも別段に凝《こ》り固まり、間《ま》がな隙《すき》がな、尺八を手にして、それを吹いてさえいれば欲も得もなく、朝早く日の昇《のぼ》らぬうちに裏の山に上がって、岩に腰をかけて暁の霧を浴びながら吹いていますと、私の尺八の音でもって朝霧が晴れ、私の転《まろ》ばす音につれて日がだんだん昇るようにまで思ったこともあったのでございます。
 それですから自然と若い者の中でも私が一番巧いということになり、老先生までがほんとに稽古すれば日本一の名人になるなどとそそのかしたものです。そのうち十九になりました。ちょうど春の初めのことでございます。日の暮方で、私はいつもの通り、尺八を持って村の小川の岸に腰をかけて、独り吹き澄ましていますと、後から『修蔵様』と呼ぶものがあります
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