づくにつれて、これが心配でならぬ。母から反対《あべこべ》に怒鳴つけられたら、どうしようなど思うと、母の剣幕が目先に浮んで来て、足は自《おのず》と立縮《たちすく》む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸《むね》を圧《おし》つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。
「大河とみ」の表札。二階建、格子戸《こうしど》、見たところは小官吏《こやくにん》の住宅《すまい》らしく。女姓名《おんななまえ》だけに金貸でも為《し》そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜《くぐ》った。
五月十三日[#「五月十三日」に傍点(白丸)]
勝手の間に通ってみると、母は長火鉢《ながひばち》の向うに坐っていて、可怕《こわ》い顔して自分を迎えた。鉄瓶《てつびん》には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。然し思ったより静で、妹《いもと》お光の浮いた笑声と、これに伴う男の太い声は二人か三人。母はじろり自分を見たばかり一言も言わず、大きな声で
「お光、お銚子《ちょうし》が出来たよ」と二階の上口《あがりくち》を向
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