ん》として机の抽斗を眺《なが》めていたが、我知らず涙が頬《ほお》をつとうて流れる。
「余《あんま》り酷《ひど》すぎる」と一語《ひとこと》僅《わず》かに洩《もら》し得たばかり。妻は涙の泉も涸《かれ》たか唯《た》だ自分の顔を見て血の気のない唇《くちびる》をわなわなと戦《ふる》わしている。
「じゃア母上《おっか》さんが……」と言いかけるのを自分は手を振って打消し、
「黙っておいで、黙っておいで」と自分は四囲《あたり》を見廻して「これから新町まで行って来る」
「だって貴所《あなた》……」
「否《いい》や、母上《おっか》さんに会って取返えして来る。余《あんま》りだ、余《あんま》りだ。親だってこの事だけは黙っておられるものか。然しどうしてそんな浅ましい心を起したのだろう……」
 自分は涙を止めることが出来ない。妻も遂に泣きだした。夫婦途方に暮れて実に泣くばかり。思えば母が三円投出したのも、親子の縁を切るなど突飛なことを怒鳴って帰ったのも皆《み》なその心が見えすく。
「直ぐ行って来る。親を盗賊に為ることは出来ない。お前心配しないで待ておいで、是非取りかえして来るから」と自分は大急ぎで仕度《したく》し
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