ますから」と自分が言うを老人は笑って打消し、
「大丈夫だよ、今夜だけだもの。私宅《うち》だって金庫を備えつけて置くほどの酒屋じゃアなし、ハッハッハッハッハッハッ。取られる時になりゃ私の処《とこ》だって同じだ。大井|様《さん》は済んだとして、後《あと》の二軒は誰が行く筈《はず》になっています」
「午後《ひるから》私が廻る積りです」
升屋の老人は去り、自分は百円の紙包を机の抽斗《ひきだし》に入れた。
五月九日[#「五月九日」に傍点(白丸)]
自分は五年|前《ぜん》の事を書いているのである。十月二十五日の事を書いているのである。厭《いや》になって了った。書きたくない。
けれども書く、酒を飲みながら書く。この頃島の若いものと一しょに稽古《けいこ》をしている義太夫《ぎだゆう》。そうだ『玉三《たまさん》』でも唸《うな》りながら書こう。面白い!
――昼飯《ひるめし》を済まして、自分は外出《でか》けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰《もら》う筈にして置いたところへ。
色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂《つらだましい》というのが母の人相。背《せい》
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