ながら、外面に出て二歩三歩《ふたあしみあし》あるいて暫時《しばし》佇立《たたず》んだ時この寥々《りょうりょう》として静粛かつ荘厳なる秋の夜の光景が身の毛もよだつまでに眼に沁《しみ》こんだことである。今もその時の空の美しさを忘れない。そして見ると、善にせよ悪にせよ人の精神凝って雑念《ぞうねん》の無い時は、外物の印象を受ける力もまた強い者と見える。
 材木の間から革包《かばん》を取出し、難なく座敷に持運んで見ると、他の二束《ふたたば》も同じく百円束、都合三百円の金高が入っていたのである。書類は請取《うけとり》の類。薄い帳面もあり、名刺もある。遺失《おと》した人は四谷区何町何番地|日向某《ひなたなにがし》とて穀物の問屋《といや》を業としている者ということが解った。
 心の弱い者が悪事を働いた時の常として、何かの言訳を自分が作らねば承知の出来ないが如く、自分は右の遺失《おとし》た人の住所姓名が解るや直ぐと見事な言訳を自分で作って、そして殆《ほとん》ど一道の光明を得たかのように喜こんだ。
 一先《ひとまず》拝借! 一先拝借して自分の急場を救った上で、その中《うち》に母から取返すとも、自分で工夫して金を作るとも、何とでもして取った百円を再び革包に入れ、そのまま人知れず先方に届ける。
 天の賜《たまもの》とは実にこの事と、無上によろこび、それから二百円を入れたままの革包を隠す工夫に取りかかった。然し元来《もと》狭い家だから別に安全な隠くし場の有ろう筈《はず》がない。思案に尽きて終《つい》に自分の書類、学校の帳簿などばかり入《いれ》て置く箪笥《たんす》の抽斗に入れてその上に書類を重ねそして鍵《かぎ》は昼夜自分の肌身《はだみ》より離さないことに決定《きめ》て漸《や》っと安心した。
 床に就たと思うと二時が打ち、がっかりして直ぐ寝入って終った。

 五月十六日[#「五月十六日」に傍点(白丸)]
 忘れることの出来ない十月二十五日は過ぎた。翌日から自分は平時《いつも》の通り授業もし改築事務も執《と》り、表面《うわべ》は以前と少しも変らなかった、母からもまた何とも言って来ず、自分も母に手紙で迫る事すら放棄して了い、一日一日と無事に過ぎゆいた。
 然し自分は到底悪人ではない、又度胸のある男でもない。さればこそ母からも附込《つけこ》まれ、遂に母を盗賊にして了い、遂に自分までが賊になってしまったのである。であるから賊になった上で又もや悶《もが》き初めるのは当然である。総《すべ》て自分のような男は皆な同じ行き方をするので、運命といえば運命。蛙《かえる》が何時《いつ》までも蛙であると同じ意味の運命。別に不思議はない。
 良心とかいう者が次第に頭を擡《もた》げて来た。そして何時も身に着けている鍵が気になって堪《たま》らなくなって来た。
 殊《こと》に自分は児童の教員、又た倫理を受持っているので常に忠孝仁義を説かねばならず、善悪邪正を説かねばならず、言行一致が大切じゃと真面目《まじめ》な顔で説かねばならず、その度毎《たびごと》に怪しく心が騒ぐ。生徒の質問の中で、折り折り胸を刺れるようなのがある。中には自分の秘密を知ってあんな質問をするのではあるまいかと疑い、思わず生徒の面《かお》を見て直ぐ我顔を負向《そむ》けることもある。或日の事、十歳《とお》ばかりの児が来て、
「校長先生、岩崎さんが私《わたくし》の鉛筆を拾って返しません」と訴たえて来た。拾ったとか、失《なくな》ったとか、落したとかいう事は多数の児童《こども》を集めていることゆえ常に有り勝で怪むに足《たら》ないのが、今突然この訴えに接して、自分はドキリ胸にこたえた。
「貴所《あなた》が気をつけんから落したのだ、待ておいで、今岩崎を呼ぶから」と言ったのは全然《まるで》これまでの自分にないことで、児童は喫驚《びっくり》して自分の顔を見た。
 岩崎という十二歳になる児童を呼んで「あなたは鉛筆を拾いはしなかったか」と聞くと顔を赤らめてもじもじしている。
「拾ったでしょう。他人《ひと》の者を拾ったら直ぐ私の所へ持て出るのが当前《あたりまえ》だのにそれを自分の者に為《す》るということは盗んだも同じことで、甚《はなは》だ善くないことですよ。その鉛筆を直ぐこの人にお返しなさい」と厳《おごそ》かに命《いい》つけた。
 そんならば何故《なぜ》自分は他人《ひと》の革包《かばん》を自分の箪笥に隠して置くのであるか。
 自分はその日校務を了《おわ》ると直ぐ宅に帰り、一室《ひとま》に屈居《かがん》で、悶《もが》き苦しんだ。自首して出ようかとも考がえ、それとも学校の方を辞職して了《しま》うかとも考がえた。この二《ふたつ》を撰《えら》ぶ上に就いて更に又苦しんだけれど、いずれとも決心することが出来ない。自首した後《あと》での妻子のことを思い、辞職
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