横ぎる時、自分は一個《ひとつ》の手提革包《てさげかばん》を拾った。

 五月十五日[#「五月十五日」に傍点(白丸)]
 どうして手提革包を拾ったかその手続まで詳わしく書くにも当るまい。ただ拾ったので、足にぶつかったから拾ったので、拾って取上げて見ると手提革包であったのである。
 拾うと直ぐ、金銭《かね》! という一念が自分の頭にひらめいた。占たと思った、そして何となく夢ではないかとも思った。というものは実は山王台で種々の空想を描いた時、もし千両も拾ったらなど、恥かしい事だが考がえたからで、それが事実となったらしいからである。革包は容易《たやす》く開《あ》いた。
 紙幣《さつ》の束が三ツ、他《ほか》に書類などが入っている。星光《ほしあかり》にすかしてこれを見た時、その時自分は全たく夢ではないかと思っただけで、それを自分が届け出《いで》るとか、横奪《よこどり》することが破廉恥の極だとか、そういうことを考えることは出来なかった。
 ただ手短かに天の賜《あたえ》と思った。
 不思議なもので一度、良心の力を失なうと今度は反対に積極的に、不正なこと、思いがけぬ大罪《たいざい》を成《な》るべく為し遂《とげ》んと務めるものらしい。
 自分はそっと[#「そっと」に傍点]この革包《かばん》を私宅《たく》の横に積である材木の間に、しかも巧に隠匿《かく》して、紙幣《さつ》の一束を懐中して素知らぬ顔をして宅《うち》に入った。
 自分の足音を聞いただけで妻《さい》は飛起きて迎えた。助《たすく》を寝かし着けてそのまま横になって自分の帰宅《かえり》を待ちあぐんでいたのである。
「如何《いか》がでした」と自分の顔を見るや。
「取り返して来た!」と問われて直ぐ。
 この答も我知らず出たので、嘘《うそ》を吐《つ》く気もなく吐いたのである。
 既にこうなれば自分は全たくの孤立。母の秘密を保つ身は自分自身の秘密に立籠《たてこも》らねばならなくなった。
「まアどうして?」と妻のうれしそうに問《とう》のを苦笑《にがわらい》で受けて、手軽く、
「能く事わけを話したら渡した」とのみ。妻は猶《な》おその様子まで詳しく聴《き》きたかったらしいが自分の進まぬ風を見て、別に深くも訊《たず》ねず、
「どんなに心配しましたろう。もしも渡さなかったらと思って取越苦労ばかり為ていました」と万斤《まんぎん》の重荷を卸ろしたよろこび。自分は懐《ふところ》に片手を入れて一件を握っていたが未《ま》だ夢の醒《さ》めきらぬ心地がして茫然《ぼうぜん》としている。
「御飯は?」
「食って来た」
「母上《おっか》さんの処で?」
「あア」
「大変お顔の色が悪う御座いますよ」と妻は自分の顔を見つめて言う。
「余り心配したせいだろう」
「直ぐお寝《やす》みなさいな」
「イヤ帳簿の調査《しらべ》もあるからお前先へ寝ておくれ」と言って自分は八畳の間に入り机に向った。然し妻は容易に寝そうもないので、
「早くお寝みというに」
 自分はこれまで、これほど角《かど》のある言葉すら妻《さい》に向って発したことはないのである。妻は不審そうに自分の方を見ているようであったが、その中《うち》床に就てしまった。自分は一度|殊更《ことさら》に火鉢の傍に行って烟草《たばこ》を吸って、間《あい》の襖《ふすま》を閉《し》めきって、漸《ようや》く秘密の左右を得た。
 懐からそっと[#「そっと」に傍点]盗すむようにして紙幣《さつ》の束を出したが、その様子は母が机の抽斗《ひきだし》から、紙幣《さつ》の紙包を出したのと同じであったろう。
 一円紙幣で百枚! 全然《まるで》注文したよう。これを数える手はふるえ、数え終って自分は洋燈《ランプ》の火を熟《じっ》と見つめた。直ぐこれを明日銀行に預けて帳簿の表《おもて》を飾ろうと決定《きめ》たのである。
 又盗すまれてはと、箪笥に納《しも》うて錠を卸ろすや、今度は提革包《さげかばん》の始末。これは妻の寝静まった後ならではと一先《ひとまず》素知らぬ顔で床に入った。
 床に入って眼を閉じている時、この時には多少《いくら》か良心の眼は醒《さ》めそうなものだが、実際はそうでなかった。魔が自分に投げ与えた一の目的の為めに、良心ならぬ猛烈の意志は冷やかに働らいて、一に妻の鼻息を覗《う》かがっている。こうして二時間|経《た》ち、十二時が打つや、蒼《あお》い顔のお政は死人のように横たわっているのを見届けて、前夜は盗賊を疑ごうて床を脱け出た自分は、今度は自身盗賊のように前夜よりも更に静に、更に巧に、寝間を出て、縁《えんがわ》の戸を一分又た一分に開け、跣足《はだし》で外面《そと》に首尾能く出た。
 星は冴《さ》えに冴え、風は死し、秋の夜の静けさ、虫は鳴きしきっている。不思議なるは自分が、この時かかる目的の為に外面《そと》に出《いで》
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