る碁すら打ち得なかったのである。
「来月一ぱいは打てそうもありません」
「その代り冬休という奴《やつ》が直ぐ前に控えていますからな。左右に火鉢、甘《うま》い茶を飲みながら打つ楽《たのしみ》は又別だ」といいつつ老人は懐中《ふところ》から新聞を一枚出して、急に真顔《まがお》になり
「ちょっとこれを御覧」
披《ひろ》げて二面の電報欄を指した。見ると或地方で小学校新築落成式を挙げし当日、廊《ろうか》の欄《てすり》が倒れて四五十人の児童庭に顛落《てんらく》し重傷者二名、軽傷者三十名との珍事の報道である。
「大変ですね。どうしたと言うんでしょう?」
「だから私が言わんことじゃあない。その通りだ、安普請《やすぶしん》をするとその通りだ。原などは余《あんま》り経費がかかり過ぎるなんて理窟《りくつ》を並べたが、こういう実例が上ってみると文句はあるまい。全体大切な児童《こども》を幾百人《なんびゃくにん》と集《よせ》るのだもの、丈夫な上に丈夫に建るのが当然《あたりまえ》だ。今日一つ原に会ってこの新聞を見せてやらなければならん」
「無闇《むやみ》な事も出来ますまいが、今度の設計なら決して高い予算じゃ御座いませんよ、何にしろあの建坪ですもの、八千円なら安い位なものです」
「いやその安価《やすい》のが私ゃ気に喰《く》わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安《やすっ》ぽい直《す》ぐ欄《てすり》の倒れるような険呑《けんのん》なものは出来上らんと思うがね」と言って気を更《か》え、「其処《そこ》で寄附金じゃが未《ま》だ大《おおき》な口が二三《ふたつみつ》残ってはいないかね?」
「未だ三口ほど残っています」
「それじゃア私がこれから廻ってみよう」
「そうですか、それでは大井|様《さん》を願います。今日渡すから人をよこしてくれろと云って来ましたから」
「百円だったね?」と老人は念を推した。
「そうです」
其処《そこ》で老人は程遠からぬ華族大井家の方へと廻るとて出行《いでゆ》きたるに引きちがえてお政は外から帰って来た。老人と自分とが話している間《ま》に質屋に行って来たのである。
「金は出来たろうか」と自分は何処までも知らぬ顔で聞いた。妻《さい》は、
「出来ました」と言いつつ小児《こども》を背から下して膝に乗せた。
「どうして出来たのだ」と自分は問わざるを得なくなった。
「どうしてでも可《い》いじゃアありませんか、私《わたくし》が……」と言いかけて淋《さび》しげな笑を洩《もら》した。
「そうさ、お前に任したのだから……ところで母上《おっか》さんが見えたら最早《もう》下宿屋は止《よ》して一所になって下さいと言ってみようじゃないか」
「言ったところで無益《むだ》で御座いますよ」
「無益ということもあるまい。熱心に説けば……」
「無益ですよ、却《かえ》って気を悪くなさるばかりですよ」
「それは多少《いくら》か気を悪くなさるだろうけれど、言わないで置けばこの後どんなことに成りゆくかも知れないよ」
「そうですねえ……然し兵隊さんとどうとかいうようなことは被仰《おっしゃら》んほうが可《よ》う御座いますよ」
「まさかそんなことまでもは言われも為《す》まいけれど」
一時間立たぬうちに升屋の老人は帰って来て、
「甘《うま》く行ったよ」と座に着いた。
「どうも御苦労様でした」
「ハイ確かに百円。渡しましたよ。験《あら》ためて下さい」と紙包を自分の前に。
「今日は日曜で銀行がだめ[#「だめ」に傍点]ですから貴所《あなた》の宅《うち》に預かって下さいませんか。私の家は用心が悪う御座いますから」と自分が言うを老人は笑って打消し、
「大丈夫だよ、今夜だけだもの。私宅《うち》だって金庫を備えつけて置くほどの酒屋じゃアなし、ハッハッハッハッハッハッ。取られる時になりゃ私の処《とこ》だって同じだ。大井|様《さん》は済んだとして、後《あと》の二軒は誰が行く筈《はず》になっています」
「午後《ひるから》私が廻る積りです」
升屋の老人は去り、自分は百円の紙包を机の抽斗《ひきだし》に入れた。
五月九日[#「五月九日」に傍点(白丸)]
自分は五年|前《ぜん》の事を書いているのである。十月二十五日の事を書いているのである。厭《いや》になって了った。書きたくない。
けれども書く、酒を飲みながら書く。この頃島の若いものと一しょに稽古《けいこ》をしている義太夫《ぎだゆう》。そうだ『玉三《たまさん》』でも唸《うな》りながら書こう。面白い!
――昼飯《ひるめし》を済まして、自分は外出《でか》けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰《もら》う筈にして置いたところへ。
色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂《つらだましい》というのが母の人相。背《せい》
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