がある。無言で一日暮すこともあり、自分の性質の特色ともいうべき温和な人なつこい[#「なつこい」に傍点]ところは殆《ほとん》ど消え失《う》せ、自分の性質の裏ともいうべき妙にひねくれた[#「ひねくれた」に傍点]片意地のところばかり潮の退《ひい》た後《あと》の岩のように、ごつごつと現われ残ったので、妻が内心驚ろいているのも決して不思議ではない。
温和で正直だけが取柄の人間の、その取柄を失なったほど、不愉快な者はあるまい。渋を抜《ぬい》た柿の腐敗《くさ》りかかったようなもので、とても近よることは出来ない。妻が自分を面白からず思い気味悪るう思い、そして鬱《ふさ》いでばかりいて、折り折りさも気の無さそうな嘆息《ためいき》を洩《もら》すのも決して無理ではない。
これを見るに就《つ》けて自分の心は愈々《いよいよ》爛れるばかり。然し運命は永くこの不幸な男女を弄《もてあ》そばず、自分が革包《かばん》を隠した日より一月目、十一月二十五日の夜を以って大切《おおぎり》と為《し》てくれた。
この夜自分は学校の用で神田までゆき九時頃|帰宅《かえ》って見ると、妻が助《たすく》を背負《おぶ》ったまま火鉢の前に坐って蒼《あお》い顔というよりか凄《すご》い顔をしている。そして自分が帰宅《かえ》っても挨拶《あいさつ》も為ない。眼の辺《ふち》には泣きただらした痕《あと》の残っているのが明々地《ありあり》と解る。
この様子を見て自分は驚いたというよりか懼《おそ》れた。懼れたというよりか戦慄《せんりつ》した。
「オイどうしたの? お前どうしたの?」と急《せ》きこんで問うたが、妻はその凄い眼で自分をじろりと見たばかりで一語も発しない。ふと気が着いて見ると、箪笥《たんす》を入た押込《おしこみ》の襖が開《あ》けっ放して、例の秘密の抽斗《ひきだし》が半分開いていた。自分は飛び起《た》った。
「誰が開けたのだ」と叫けんで抽斗に手をかけた。
「私が開けました」と妻の沈着《おちつ》き払った答。
「何故開けた、どうして開けた」
「委員会から帳簿を借してくれろと言って来ましたから開けて渡しました」とじろり自分の顔を見た。
「何だって私の居ないのに渡した、え何だって渡した。怪《けし》からんことだ」と喚《わめ》きつつ抽斗の中を見ると革包が出ていてしかも口を開けたままである。
「お前これを見たな!」と叫けんで「可《よ》し私にも
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