。』
『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主人《あるじ》は便所の窓を明けたが、外面《そと》は雨でも月があるから薄光《うすあかり》でそこらが朧《おぼろ》に見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時|傘《かさ》をさしたる一人《ひとり》の男、線路のそばに立っていたのが主人《あるじ》の窓をあけたので、ソッと避《よ》けて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、
『何を言っても命あっての物種《ものだね》だ、』と大きな声で独言《ひとりごと》を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』
この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢《けはい》がしたが、主人《あるじ》はそれには気が付かない。
『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人《いろ》が不実《ふじつ》なら別な情人《いろ》を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』
娘が来て、
『何言ってるの?』気味わるそうに言う。
『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神《しにがみ》に取っ付かれそうな晩だから、早く
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