つ歌うを聴かんとて撰《えら》びて彼が舟に乗りたり。されど言葉すくなきは今も昔も変わらず。
「島の小女《おとめ》は心ありてかく晩《おそ》くも源が舟頼みしか、そは高きより見下ろしたまいし妙見様ならでは知る者なき秘密なるべし。舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額《ひたい》に深き二条《ふたすじ》の皺《しわ》寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。
「源が歌う声|冴《さ》えまさりつ。かくて若き夫婦の幸《たの》しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子《ひとりご》の幸助《こうすけ》七歳《ななつ》の時、妻ゆりは二度目の産重くしてついにみまかりぬ。城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人《あきうど》に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛《かあい》き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀《まれ》に、櫓《ろ》こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐《だいご》の入江を夕月の光|砕《くだ》きつつ朗《ほが》らかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元
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