菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭|載《の》せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は頭《つむり》をあげて、
「我子よ今恐ろしき夢みたり」いいつつ枕辺を見たり。紀州いざりき。
「わが子よ」嗄《しわ》がれし声にて呼びぬ。答なし。窓を吹く風の音|怪《あや》しく鳴りぬ。夢なるか現《うつつ》なるか。翁《おきな》は布団《ふとん》翻《はね》のけ、つと起《た》ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、目《め》眩《くら》みてそのまま布団の上に倒れつ、千尋《ちひろ》の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。
 その日源叔父は布団|被《かぶ》りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹きそめし風しだいに荒らく磯打つ浪の音すごし。今日は浦人も城下に出でず、城下より嶋《しま》へ渡る者もなければ渡舟《おろし》頼みに来る者もなし。夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。
 朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽《かっぱ》を着、灯燈《ちょうちん》つけ舷燈|携《たずさ》えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど
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