に見廻わしぬ。煤《すす》けし壁の四隅は光届きかねつ心ありて見れば、人あるに似たり。源叔父は顔を両手に埋め深き嘆息《ためいき》せり。この時もしやと思うこと胸を衝《つ》きしに、つと起《た》てば大粒の涙流れて煩をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし舷燈《げんとう》に火を移していそがわしく家を出で、城下の方指して走りぬ。
蟹田《がんだ》なる鍛冶《かじ》の夜業《よなべ》の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌《つち》持てる若者の一人答えて訝《いぶか》しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面《えがお》作りつ、また急ぎゆけり。右は畑《はた》、左は堤《つつみ》の上を一列に老松並ぶ真直の道をなかば来たりし時、行先をゆくものあり。急ぎて燈火《ともしび》さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。彼は両手を懐にし、身を前に屈めて歩めり。
「紀州ならずや」呼びかけてその肩に手を掛けつ、
「独りいずこに行かんとはする」怒り、はた喜び、はた悲しみ、はた限りなき失望をただこの一言に包みしようなり。紀州は源叔父が顔見て驚きし様もなく、道ゆく人を門に立ちて心なく見やるご
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