り。舟|繋《つな》ぎおわれば臥席《ござ》巻《ま》きて腋《わき》に抱き櫓を肩にして岸に上《のぼ》りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼|※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りてあたりを見廻わしぬ。
「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置きて内に入りぬ。家内《やうち》暗し。
「こはいかに、わが子よ今帰りぬ、早く燈《ともしび》点《つ》けずや」寂《せき》として応《こた》えなし。
「紀州紀州」竈馬《こおろぎ》のふつづかに喞《な》くあるのみ。
翁は狼狽《あわ》てて懐中《ふところ》よりまっち取りだし、一摺《ひとす》りすれば一間のうちにわかに明《あか》くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。陰森《いんしん》の気|床下《ゆかした》より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆洋燈《まめらんぷ》に火を移しあたりを見廻わすまなざし鈍《にぶ》く、耳そばだてて「我子よ」と呼びし声|嗄《しわが》れて呼吸も迫りぬと覚《おぼ》し。
炉には灰白く冷え夕餉たべしあとだになし。家内捜すまでもなく、ただ一間のうちを翁はゆるやか
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