、水の辺《ほとり》、国々には沢《さわ》なるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいて誰《たれ》一人開くこと叶《かな》わぬ箱のごとき思いす。こは余《よ》がいつもの怪しき意《こころ》の作用《はたらき》なるべきか。さもあらばあれ、われこの翁を懐《おも》う時は遠き笛の音《ね》ききて故郷《ふるさと》恋うる旅人の情《こころ》、動きつ、または想《そう》高き詩の一節読み了《お》わりて限りなき大空を仰《あお》ぐがごとき心地す」と。
 されど教師は翁が上を委《くわ》しく知れるにあらず。宿の主人《あるじ》より聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師が心《こころ》解《げ》しかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は佐伯町《さいきまち》にふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、人数《ひとかず》は二十にも足らざるべく、淋《さみ》しさはいつも今宵《こよい》のごとし。されど源叔父《げんおじ》が家一軒ただこの磯に立ちしその以前《かみ》の寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き道路《みち》のかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を
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