み》ちたり。
「紀州連れてこのたびの芝居見る心はなきか」かくいいし若者は源叔父|嘲《あざけ》らんとにはあらで、島の娘の笑い顔見たきなり。姉妹《はらから》は源叔父に気兼《きが》ねして微笑《ほほえみ》しのみ。老婦《おうな》は舷《ふなばた》たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。
「阿波十郎兵衛《あわのじゅうろべえ》など見せて我子泣かすも益《えき》なからん」源叔父は真顔にていう。
「我子とは誰《た》ぞ」老婦《おうな》は素知らぬ顔にて問いつ、
「幸助殿はかしこにて溺《おぼ》れしと聞きしに」振り向いて妙見《みょうけん》の山影黒きあたりを指《さ》しぬ、人々皆かなたを見たり。
「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて彦岳《ひこだけ》の方《かた》を見やり、顔赤らめていい放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥ともはた喜びともいいわけがたき情《こころ》胸《むね》を衝《つ》きつ。足を舷端《ふなばた》にかけ櫓《ろ》に力加えしとみるや、声高らかに歌いいでぬ。
 海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪《ゆうなぎ》の海面《うみづら》をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋
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