、水の辺《ほとり》、国々には沢《さわ》なるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいて誰《たれ》一人開くこと叶《かな》わぬ箱のごとき思いす。こは余《よ》がいつもの怪しき意《こころ》の作用《はたらき》なるべきか。さもあらばあれ、われこの翁を懐《おも》う時は遠き笛の音《ね》ききて故郷《ふるさと》恋うる旅人の情《こころ》、動きつ、または想《そう》高き詩の一節読み了《お》わりて限りなき大空を仰《あお》ぐがごとき心地す」と。
 されど教師は翁が上を委《くわ》しく知れるにあらず。宿の主人《あるじ》より聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師が心《こころ》解《げ》しかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は佐伯町《さいきまち》にふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、人数《ひとかず》は二十にも足らざるべく、淋《さみ》しさはいつも今宵《こよい》のごとし。されど源叔父《げんおじ》が家一軒ただこの磯に立ちしその以前《かみ》の寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き道路《みち》のかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を旅人に借せど十余年の昔は沖より波寄せておりおりその根方《ねかた》を洗いぬ。城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に突出《つきいで》し巌《いわ》に腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もて危《あや》うき崖も裂かれたれど。
「否《いな》、彼とてもいかで初めより独《ひと》り暮さんや。
「妻は美しかりし。名を百合《ゆり》と呼び、大入島《おおにゅうじま》の生まれなり。人の噂をなかば偽りとみるも、この事のみは信《まこと》なりと源叔父がある夜酒に呑まれて語りしを聞けば、彼の年二十八九のころ、春の夜《よ》更《ふ》けて妙見《みょうけん》の燈《ともしび》も消えし時、ほとほとと戸たたく者あり。源起きいで誰れぞと問うに、島まで渡したまえというは女の声なり。傾《かたぶ》きし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の百合《ゆり》という小娘にぞありける。
「そのころ渡船《おろし》を業《ぎょう》となすもの多きうちにも、源が名は浦々《うらうら》にまで聞こえし。そは心たしかに侠気《おとこぎ》ある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたきはそのころの源が声にぞありける。人々は彼が櫓《ろ》こぎつ
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