》と羨《うらや》ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間《しゅっせけん》的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由《よ》ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。
「それから山内の森の中へ来ると、月が木間《このま》から蒼然《そうぜん》たる光を洩《もら》して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩《いつあし》ばかり先を歩るいていました。夜は更《ふ》けて人の通行《ゆきき》も稀《まれ》になっていたから四辺《あたり》は極《きわ》めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻《さっき》の母の言草《いいぐさ》が胸に応《こた》えているので僕も娘も無言、母も急に真面目《まじめ》くさって黙って歩るいていました。
「森影暗く月の光を遮《さえぎ》った所へ来たと思うと少女《むすめ》は卒然《いきなり》僕に抱きつかんばかりに寄添って
『貴様《あなた》母の言葉を気にして小妹《わたくし》を見捨ては不可《いけ》ませんよ』と囁《ささや》き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬《ほお》にべたり熱いものが触て一種、花にも優《まさ》る香が鼻先を掠《かす》めました。突然明い所へ出ると、少女《むすめ》の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄《ものすご》いほど蒼白《あおじろ》かったが、一《ひとつ》は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気《さむけ》を覚えて恐《こわ》いとも哀《かな》しいとも言いようのない思が胸に塞《つか》えてちょうど、鉛の塊《かたまり》が胸を圧《お》しつけるように感じました。
「その夜、門口《かどぐち》まで送り、母なる人が一寸《ちょっ》と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就《つ》きましたが、或|難《むずかし》い謎《なぞ》をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉《ことごと》く了解《わか》りでもするといったような心持がして、決して比喩《ひゆ》じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内の淋《さ》むしい所を撰《よ》ってぶらぶら歩るき、何時《いつ》の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時《しばら》く凝然《じっ》と品川の沖の空を眺《なが》めていました。
『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電《いなずま》のように僕の心中最も暗き底に閃《ひらめ》いたと思うと僕は思わず躍《おど》り上がりました。そして其所《そこ》らを夢中で往きつ返《もど》りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱《しっ》するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視《みつめ》ていると、蒼白《あおじろ》い少女《むすめ》の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「遂《つい》に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可《よ》い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上《のぼ》る時は少も気がつかなかったが路傍《みちばた》にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水《ひやみず》をかけられたように感じて、其所《そこ》に突立って了いました。
「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館《こうようかん》の方から山内へ下りると突当《つきあたり》にあるあの交番まで駈《か》けつけてその由を告げました……」
「その女が君の恋していた少女《むすめ》であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言た。
「それでは全《まる》で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了《しま》われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜|殆《ほとん》ど眠りませんでした。
「然《し》かし能《よ》くしたもので、その翌日|少女《むすめ》の顔を見ると平常《ふだん》に変っていない、そしてそのうっとり[#「うっとり」に傍点]した眼に笑《えみ》を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほどこれはお安価《やす》くないぞ」と綿貫が床を蹶《け》って言った。
「まア黙って聴《き》きたまえ、それから」と松木は至極|真面目《まじめ》になった。
「其先《さき》を僕が言おうか、こうでしょう、最後《おしまい》にその少女《むすめ》が欠伸《あくび》一つして、それで神聖なる恋が最後《おしまい》になった、そうでしょう?」と近藤も何故《なぜ》か真面目で言った。
「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯《ふきだ》して了った。
「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知っているのかね」これは井山の柄にない言草。
「岡本君の談話《はなし》の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或|少女《むすめ》と乙な中《なか》になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰《たれ》の恋でもこれが大切《おおぎり》だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽《あ》きて了う、夫婦なら仕方がないから結合《くっつ》いている。然しそれは女が欠伸を噛殺《かみころ》してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。
「僕もその頃、上村|君《さん》のお話と同様、北海道熱の烈《はげ》しいのに罹《かか》っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽《たのしみ》でした、矢張上村君の亜米利加《アメリカ》風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取《ずどり》までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火《あかり》を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村が情けなそうに言ったので、どっと皆《みんな》が笑った。
「君が馬鈴薯《じゃがいも》党を変節したのも、一はその故《せい》だろう」と綿貫が言った。
「イヤそれは嘘言《うそ》だ、上村君にもし相手があったら北海道の土を踏《ふま》ぬ先に変節していただろうと思う、女と言う奴《やつ》が到底馬鈴薯主義を実行し得《う》るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋《いも》が嗜好《す》きなんていうのは嘘《うそ》サ!」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々《ようよう》静まった。
「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先《ひとまず》故郷《くに》に帰り、親族に托《たく》してあった山林田畑を悉《ことごと》く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積《つもり》で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合《ふおりあい》やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日|少女《むすめ》の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女《むすめ》は最早《もう》死んでいました」
「死んで?」と松木は叫けんだ。
「そうです、それで僕の総《すべ》ての希望が悉く水の泡《あわ》となって了いました」と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それが全《まる》で演説口調、
「イヤどうも面白い恋愛談《ラブだん》を聴かされ我等一同感謝の至に堪《た》えません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧《むし》ろ喜びます、却《かえっ》て喜びます、もしもその少女《むすめ》にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」
 とまでは頗《すこぶ》る真面目であったが、自分でも少し可笑《おか》しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味《えみ》を含ませて、
「何となれば、女は欠伸《あくび》をしますから……凡《およ》そ欠伸に数種ある、その中|尤《もっと》も悲むべく憎くむ可《べ》きの欠伸が二種ある、一は生命に倦《う》みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子《にょし》の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」
 と少し真面目な口調に返り、
「則《すなわ》ち女子《にょし》は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸《さいわい》にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽《たのしみ》という字の全意義はかかる女子《にょし》の境遇に於《おい》て尽されているだろう。然し忽ち倦《うん》で了う、則ち恋に倦でしまう、女子《にょし》の恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他《ほか》にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐《あわ》れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇《であ》う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧《ささ》げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在《あっ》ては恋則ち男子の生命である」
 と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿《うが》っているでしょう」
「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。
「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯《た》だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女《むすめ》に遇《あ》いたいというんでしょう」
「否《ノー》!」と一声叫けんで岡本は椅子を起《た》った。彼は最早《もう》余程《よほど》酔っていた。
「否《ノー》と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談《はな》しましょう」
「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆《みんな》は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目《まじめ》で、綿貫と井山と上村は笑味《えみ》を含んで。
「それでは否《ノー》の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤|君《さん》のお察《さっし》の通り恋愛に依《よっ》て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女《むすめ》の死は僕に取ての大打撃、殆《ほとん》ど総《すべ》ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香《はんごんこう》とかいう価物《しろもの》があるなら僕は二三百|斤《きん》買い入れたい。どうか少女《むすめ》を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度《いくたび》僕は少女《むすめ》を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女《むすめ》の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大《おおい》なる願、深い願、熱心なる願を以《もっ》ています。この願さえ叶《かな》えば少女《むすめ》は復活しない
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