を撫《なで》てみた。
「イヤ僕こそ甚《はなは》だお恥しい話だがこれで矢張り作《やっ》たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」
「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯《ふきだ》して了った。
「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。
「そうか、諸君も作《やっ》たのか、驚ろいた、その昔は皆《みん》な馬鈴薯党なんだね」と上村は大《おおい》に面目を施こしたという顔色《かおつき》。
「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。
「そうだ、先をやり給え!」と近藤は殆《ほとん》ど命令するように言った。
「宜《よろ》しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場《ステーション》で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾《つばき》を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉《うれ》しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭《ふ》いたよ真実《ほんと》に!」
「一寸《ちょっ》と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。
「唯《た》だ東京の奴等《やつら》を言ったのサ、名利《みょうり》に汲々《きゅうきゅう》としているその醜態《ざま》は何だ! 馬鹿野郎! 乃公《おれ》を見ろ! という心持サ」と上村もまた真面目で註解《ちゅうかい》を加えた。
「それから道行《みちゆき》は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂《いわゆ》る額に汗するのはこれからだというんで直《ただち》に着手したねエ。尤《もっと》も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張《やっぱり》僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原《かじわら》信太郎のことサ……」
「ウン梶原君が!? あれが矢張《やっぱり》馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥《ふと》ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。
「そうサ、今じゃア鬼のような顔《つら》をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初《はじめ》から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或《ある》日こんな馬鹿気たことは断然|止《よそ》うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧《むし》ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時|大《おおい》に反対した、君|止《よ》すなら止せ、僕は一人でもやると力味《りき》んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞《すてぜりふ》を吐いて直ぐ去《い》って了った。取残された僕は力味《りき》んではみたものの内内《ないない》心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪《えら》いだろう!」
「馬鹿なんサ!」と近藤が叱《しか》るように言った。
「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」
「矢張《やっぱり》馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食《くお》うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有《ありがた》いことには僕に馬鈴薯の品質《がら》が無かったのだ。其処《そこ》で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次《だんだん》近づいて来た、その露払《つゆはらい》が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森《しん》とした林の上をパラパラと時雨《しぐれ》て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒|幾価《いくら》と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処《ところ》は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それは貴様《あなた》覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。
「其処ですよ、理想よりか実際の可《い》いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張《やは》り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩《や》せますもの」
上村は言って杯で一寸と口を湿《しめ》して
「僕は痩せようとは思っていなかった!」
「ハッハッハッハッハッハッ」と一同《みんな》笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死《しん》でいたね」
「其処でどういうんです、貴様の目下《もっか》のお説は?」と岡本は嘲《あざけ》るような、真面目な風で言った。
「だから馬鈴薯には懲々《こりごり》しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味《うま》いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉《ストーブ》にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減《すい》たら牛肉を食う……」
「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴《そいつ》が馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉《いきま》いた。
「僕は違うねエ!」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。凄《すご》い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗《むやみ》と鼻をぴくぴくさして牛《うし》の焦《こげ》る臭《におい》を嗅《か》いで行《ある》く、その醜体《ざま》ったらない!」
「オイオイ、他人《ひと》を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。
「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸《さいわい》にして最初から高い処に居ないからそんな外見《みっとも》ないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜《す》きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓《う》えたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤は直《ただち》に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使《きゅうじ》の一人がつかつかと近藤の傍《そば》に来てその耳に附いて何ごとをか囁《ささや》いた。すると
「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」と怒鳴った。
「何だ?」と坐中の一人が驚いて聞いた。
「ナニ、車夫の野郎、又た博奕《ばくち》に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマ[#「ヘチマ」に傍点]でもない!」
「大に賛成ですなア」と静《しずか》に沈重《おちつ》いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本はその冴《さ》え冴《ざ》えした眼光を座上に放った。
「その説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤はその四角な腮《あご》を突き出した。
「君は何方《どちら》なんです、牛と薯《いも》、エ、薯でしょう?」と上村は知った顔に岡本の説を誘《いざの》うた。
「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜《す》きとも決っていないんです。勿論《もちろん》例の主義という手製料理は大嫌《だいきらい》ですが、さりとて肉とか薯《いも》とかいう嗜好《しこう》にも従うことが出来ません」
「それじゃア何だろう?」と井山がその尤《もっと》もらしいしょぼしょぼ眼《まなこ》をぱちつかした。
「何でもないんです、比喩《ひゆ》は廃《よ》して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充《みた》して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為《し》ないのではないので、実をいうと何方《どちら》でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯《た》った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方《どちら》とも得決《えき》めないでいます」
「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧《お》しつけるような言振《いいぶり》で問うた。
「一口には言えない」
「まさか狼《おおかみ》の丸焼で一杯飲みたいという洒落《しゃれ》でもなかろう?」
「まずそんなことです。……実は僕、或|少女《むすめ》に懸想《けそう》したことがあります」と岡本は真面目で語り出《いだ》した。
「愉快々々、談|愈々《いよいよ》佳境に入《い》って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉《ストーブ》の方へ引寄た。
「少し談《はなし》が突然《だしぬけ》ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女《むすめ》はなかなかの美人でした」
「ヨウ! ヨウ!」と松木は躍上《おどりあが》らんばかりに喜こんだ。
「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排《あんばい》は西洋婦人のように肉附が佳《よ》くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌《あいきょう》を含めて凝然《じっ》と睇視《みつめ》られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋《ラブ》したとは思いませんでしたねえ。
「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯《た》だ女中とその少女《むすめ》と妹《いもと》の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女《むすめ》は身体《からだ》の具合が少し悪いと言って鬱《ふさ》いで、奥の間に独《ひとり》、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺《えんがわ》に腰をかけたまま聴《き》いていました。
『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪《たま》りません』と思わず口に出しますと
『小妹《わたくし》は何故《なぜ》こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女《むすめ》がさもさも頼《たより》なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論《えんせいろん》にも優《まさ》って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解《わか》りましょう。
「二人は忽《たちま》ち恋の奴隷《やっこ》となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀《かな》しさとを知りました、二月ばかりというものは全《まる》で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二《ひとつふたつ》お安価《やすく》ない幕を談《はな》すと先ずこんなこともありましたっケ、
「或《ある》日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家《はくしゃくけ》の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃|漸《ようや》く散会になり僕はホテルから芝山内《しばさんない》の少女《むすめ》の宅まで、月が佳《よ》いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行《や》って来ると、途々《みちみち》母は口を極《きわ》めて洋行夫婦を褒《ほ》め頻《しきり
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