か。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明《せんめい》し、そして安心|立命《りゅうめい》の地をその上に置こうと悶《もが》いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足《はだし》というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔《つら》に『偽《いつわり》』の一字を烙印《らくいん》します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚《びっくり》しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
 岡本は静に
「喫驚《びっくり》したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語《おとしばなし》か!」
 人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言《だまっ》て岡本の説明を待ているらしい。
「こういう句があります、
  Awake, poor troubled sleeper: shake off
  thy torpid night−mare dream.
即ち僕の願とは夢魔《むま》を振い落したいことです!」
「何のことだか解らない!」と綿貫は呟《つぶ》やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「愈々《いよいよ》以て謎《なぞ》のようだ!」と今度は井山がその顔をつるりと撫《な》でた。
「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「イクラでも君勝手に驚けば可《い》いじゃアないか、何でもないことだ!」と綿貫は嘲《あざけ》るように言った。
「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安《やすん》ずる能《あた》わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「なるほどこいつは益々《ますます》解りにくいぞ」と松木は呟《つぶ》やいて岡本の顔を穴のあくほど凝視《みつめ》ている。
「寧ろこの使用《つか》い古るした葡萄《ぶどう》のような眼球《めのたま》を※[#偏が「宛」で旁が「りっとう」]《えぐ》り出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。
「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。
「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆《きも》は喰《く》いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前《まのあたり》に視《み》て死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。
「勝手に驚けと言われました綿貫|君《さん》は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死ました。この世から消えて失《なく》なりました。僕は全然恋の奴隷《やっこ》であったからかの少女《むすめ》に死なれて僕の心は掻乱《かきみだ》されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡《なく》なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻《れいこく》なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「曰《いわ》く習慣《カストム》の力です。
  Our birth is but asleep and forgetting.
 この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児《こども》の時から種々な事に出遇《であ》う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於《おい》てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候《そうろ》うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立《たっ》ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。
  Full soon thy soul shall have her earthly freight,
  And custom lie upon thee with a weight,
  Heavy as frost, and deep almost as life !
 この通りです、この通りです!
「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩《はた》き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣《カストム》の圧力から脱《の》がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立《ふぎょうかいりつ》したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯《じゃがいも》主義となろうが、将《は》た厭世《えんせい》の徒となってこの生命を咀《のろお》うが、決して頓着《とんじゃく》しない!
「結果は頓着しません、源因《げんいん》を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたく
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