ないものは決して他《ほか》にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐《あわ》れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇《であ》う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧《ささ》げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在《あっ》ては恋則ち男子の生命である」
 と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿《うが》っているでしょう」
「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。
「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯《た》だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女《むすめ》に遇《あ》いたいというんでしょう」
「否《ノー》!」と一声叫けんで岡本は椅子を起《た》った。彼は最早《もう》余程《よほど》酔っていた。
「否《ノー》と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談《はな》しましょう」
「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆《みんな》は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目《まじめ》で、綿貫と井山と上村は笑味《えみ》を含んで。
「それでは否《ノー》の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤|君《さん》のお察《さっし》の通り恋愛に依《よっ》て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女《むすめ》の死は僕に取ての大打撃、殆《ほとん》ど総《すべ》ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香《はんごんこう》とかいう価物《しろもの》があるなら僕は二三百|斤《きん》買い入れたい。どうか少女《むすめ》を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度《いくたび》僕は少女《むすめ》を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女《むすめ》の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大《おおい》なる願、深い願、熱心なる願を以《もっ》ています。この願さえ叶《かな》えば少女《むすめ》は復活しないでも宜《よろ》しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜《よろ》しい。少女《むすめ》が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「朝《あした》に道を聞かば夕《ゆうべ》に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶《かな》わん位なら今から百年生きていても何の益《やく》にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「全世界の人悉くこの願を有《もっ》ていないでも宜しい、僕|独《ひと》りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関《かま》いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾《なんじ》の妻を与えよ我これを姦《かん》せん爾の子を与えよ我これを喰《くら》わん然《しか》らば我は爾に爾の願を叶《かな》わしめんと言えば僕は雀躍《じゃくやく》して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がその髯《ひげ》を力任かせに引《ひい》て叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日《こんにち》のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤《ほうたいこう》みたような人間をつきまぜて一《ひとつ》鋼鉄のような政府を形《つく》り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督《クリスト》や釈迦《しゃか》や孔子《こうし》のような人になりたい、真実《ほんと》にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則《すなわ》ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴《いただ》いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪《たま》らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵《こうじん》三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だと
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