窮死
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)最寄《もより》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)絶望的|無我《ぶが》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1−12−94]
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 九段坂の最寄《もより》にけち[#「けち」に傍点]なめし[#「めし」に傍点]屋がある。春の末の夕暮れに一人《ひとり》の男が大儀そうに敷居をまたげた。すでに三人の客がある。まだランプをつけないので薄暗い土間に居並ぶ人影もおぼろである。
 先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼう[#「ちんぼう」に傍点]ぐらいのごく下等な労働者である。よほど都合のいい日でないと白馬《どぶろく》もろくろくは飲めない仲間らしい。けれどもせんの三人は、いくらかよかったと見えて、思い思いに飲《や》っていた。
「文公《ぶんこう》、そうだ君の名は文さんとか言ったね。からだはどうだね。」と角《かど》ばった顔の性質《ひと》のよさそうな四十を越した男がすみから声をかけた。
「ありがとう、どうせ長くはあるまい。」と今来た男は捨てばちに言って、投げるように腰掛けに身をおろして、両手で額を押え、苦しい咳《せき》をした。年ごろは三十前後である。
「そう気を落とすものじゃアない、しっかり[#「しっかり」に傍点]なさい」と、この店の亭主《ていしゅ》が言った。それぎりでたれもなんとも言わない、心のうちでは「長くあるまい」と言うのに同意をしているのである。
「六銭しかない、これでなんでもいいから……」と言いさして、咳《せき》で、食わしてもらいたいという言葉が出ない。文公は頭の毛を両手でつかんでもがいている。
 めそめそ泣いている赤んぼを背負ったおかみさん[#「おかみさん」に傍点]は、ランプをつけながら、
「苦しそうだ、水をあげようか。」と振り向いた。文公は頭を横に振った。
「水よりかこのほうがいい、これなら元気がつく」と三人の一人の大男が言った。この男はこの店にはなじみでないと見えてさっきから口をきか[#「きか」に傍点]なかったのである。突き出したのが白馬《どぶろく》の杯《さかずき》。文公はまたも頭を横に振った。
「一本つけ[#「つけ」に傍点]よう。やっぱりこれでないと元気がつかない。代《だい》はいつでもいいから飲《や》ったほうがよかろう。」と亭主《あるじ》は文公がなんとも返事せぬうちに白馬《どぶろく》を一本つけた。すると角《かど》ばった顔の男が、
「なアに文公が払えない時は、わしがどうにでもする。えッ、文公、だから一ツ飲《や》ってみな。」
 それでも文公は頭を押えたまま黙っていると、まもなく白馬一本と野菜の煮つけを少しばかり載せた小ざら一つが文公の前に置かれた。この時やっと頭を上げて、
「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも咳《せき》をしてホッとため息をついた。長おもてのやせこけた顔で、頭は五分刈りがそのまま伸びるだけ伸びて、ももくちゃ[#「ももくちゃ」に傍点]になって少しのつやもなく、灰色がかっている。
 文公のおかげで陰気がちになるのもしかたがない、しかしたれもそれを不平に思う者はないらしい。文公は続けざまに三四杯ひっかけてまたも頭を押えたが、人々の親切を思わぬでもなく、また深く思うでもない。まるで別の世界から言葉をかけられたような気持ちもするし、うれしいけれど、それがそれまでの事である事を知っているから「どうせ長くはない」との感じを、しばしの間でもよいから忘れたくても忘れる事ができないのである。
 からだにも心にも、ぽかんとしたような絶望的|無我《ぶが》が霧のように重く、あらゆる光をさえぎって立ちこめている。
 すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやり[#「にやり」に傍点]と笑った時は、四角の顔がすぐ、
「そら見ろ、気持ちが直ったろう。飲《や》れ飲《や》れ、一本で足りなきゃアもう一本|飲《や》れ、わしが引き受けるから。なんでも元気をつけるにゃアこれに限るッて事よ!」と御自身のほうが大元気になって来たのである。
 この時、外から二人の男が駆けこんで来た。いずれも土方ふうの者である。
「とうとう降《や》って来やアがった。」と叫んで思い思いに席を取った。文公の来る前から西の空がまっ黒に曇り、遠雷さえとどろきて、ただならぬけしきであったのである。
「なに、すぐ晴《あが》ります。だけど今時分の夕立なんて、よっぽど気まぐれだ。」と亭主《あるじ》が言った。
 二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光
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